気まぐれネコめくり

家族は3にゃん(娘)、主人、私。

最初に出逢った運命の子(ラスト)

2024年02月27日 15時09分24秒 | うちのにゃんズの話
※出来れば、最初に出逢った運命の子(その1) から読んでください。
これは、3話だけで完結します。

※今回は写真はありません。いつもの昭和ジョ―クもなしです。
「最初に出逢った運命の子」3話は、大切なネコ友さんへのメッセージ。

この話しは、自分の心の中だけに秘めておきたかった。
忘れたことなどない、でも思い出したくない。
心の中でまた葛藤が始まるから。

「最初に出逢った運命の子」は、ブ―のことです。
ブ―が私にネコの全てを教えてくれました。
絶対に同じとはいえませんが、おすネコで家と外へ自由に出入りしている子は
自分の寿命をさとると、飼い主に迷惑をかけないように
見つからない場所にいき、☆に帰ります。

ブ―は私が仕事に行くときは必ず玄関までついてきて「にゃぁ」と一言。
ある日、仕事に行こうしたら私にしがみつき中々放してくれませんでした。
それが、あの子との最後だとは思いませんでした。

結婚して実家を離れた、ある日のこと母から電話が
「ブ―が、ずっと帰ってこないの、もう6日も」
すぐにバイクに乗り実家に行き、懐中電灯を持って探しに。
オスの行動範囲は半径1キロ、まずは、近所から探し
翌日は保健所、警察に問い合わせの電話。探す範囲も広げました。
そんな1週間が続き、無理だ。見つかるわけない。
あの子は、☆に帰ってしまった。もしかしたら、私の身代わりか…。

昔から伝わっていることがあります。ネコ好きの方ならご存知でしょう。
ネコは飼い主がケガや病気になると、自分の命を差し出し身代わりになると。
私はバイク通勤していましたが、あの子が帰らなくなった数日後のこと
バイクで走っている時に、横から軽トラにぶつけられ
一瞬倒れそうにフラつきましたが、何とか立て直し無事でした。
私が乗っていたのは、スクーターとかでなく250ccの中型でした。
幹線道路で交通量も多く、倒れれば後続車にもひかれる。
なのにケガ一つせず。これが、あの子の最後の自分の命をかけたお礼なんだと。

ブ―の息子、アンは交通事故で☆に。クロは老ネコになり静かに過ごしていたのに
私が仔猫のビ―を実家に連れて行ったために家出を繰り返し、数年後に☆に。
老ネコは後から仔猫や若いネコが来ると「自分はもう不要なんだ」と思い込み
家出してしまうのです。分かっていたけど、クロなら大丈夫だと思った私のせい。

※大切なネコ友さん、私も同じような経験をしています。その辛さ、さみしさ、悲しみは
たぶん一生ついてきます。愛情の深さの分。いや、数倍かもしれない。
ゆっくりでいい、無理せず一歩づつでいい、前に踏み出してください。
心の中でそう願っているネコ友がいることは確かです。

※大切なネコ友さんの目にとまれば、いいのですが。
数日間だけ、更新せずにこのままでいます。
いつも応援してくださっている皆様、昔の記事の方が笑えますので
2010年2月より前の記事がおすすめです。

最初に出逢った運命の子(その2)

2024年02月27日 08時42分51秒 | うちのにゃんズの話
数年後、兄が(今はもう☆に) 東京の中野新橋か中野坂上のどっちか
アパートを借りていて、知り合いから譲ってもらったアベシニアンを飼っていました。
もちろん、アパートなのでペットを飼うのは禁止です。
大家さんに見つかってしまい、退去を銘じられ実家にネコと共に戻ってきました。
実家の二階で室内飼いをしていたのですが、ある日のこと
二階の扉を開けたまま仕事に行ってしまったのです。



↑写真はこの一枚だけ。兄の命と共に。

名前は、わさ。悪さばかりするので、この名に。女子。
アベシニアンは、飼い主にはなつきますが、他の人には野生度100パーセントで
歯向かってくる、すご―く気の強いネコなんです。
私が一番最初に帰宅した日のこと、電話の横に、わさ。
ひえ~、なんでそこにいるんだよ~
そ―ゆ―時に限って、電話がなるんです。(あるあるでしょ)
手を伸ばそうとしたら、今にもとびかかってきそうほど威嚇され
木でできた1メートルの定規で「わさ~、どいて~」とおしりを押してみても
わさは、さらにヒ―トアップ‼ 電話は切れちゃいました。
そ―ゆ―時に限って、その2は外で遊んでいたブ―が帰ってきちゃった。
しかも、両方とも一匹飼いだったので、去勢手術も避妊手術もしてませんでした。
さらに、両方ともさかりの時期。 ありゃりゃぁ~
わさにゃん、めでたくご懐妊。そして、出産。男子2匹、女子2匹。



↑男子組のアンとクロ ちびっこの時の写真はありません。兄の命と共に。

兄は結婚して、わさにゃんと二匹の女子組 (名前は、ちび。と、うさぎ) 写真はありません。
を連れて実家から出ていきました。

最初に出逢った運命の子(その1)

2024年02月26日 03時16分31秒 | うちのにゃんズの話
確か私が、まだ19歳だった頃 (一応私にも若かった頃はありますよ~)
東京の原宿にあった実家に両親と住んでいました。
その実家の近くに東郷神社があるのですが、その前に明治道路があり
歩道にツツジの生垣があり、そこで白黒ぶちの仔猫が鳴いているのを発見。
どうしよう、こんな所にいたら車にひかれてしまう。私の心はすでに決まってました。
仔猫って、こんなに可愛くて温かいんだ。連れて帰ろう。



名前は「ブ―」男の子。両親は最初はダメと言ってましたが、一日一緒にいたらとりこに。
仕事が終わると速攻で帰宅してしまうほどでした。当時はまだ近所に動物病院などなく
私もネコの知識など全くなくて、図書館に行ってネコに関する本をかりまくって勉強。
両親に後から聞かされたことですが、犬もネコも飼ったことがあったそうでした。
犬は交通事故で☆になり、ネコは兄が赤ちゃんだった時に顔の上に乗ってしまうので
多摩川の河川敷に捨てに行ったけど、ボロボロになって帰ってきたそうで
父は泣きながら、さらに遠いところに捨てに行ったそうでした。
そんなひどいこと、むごいことを自分の両親が。さすがに、耐えられず大泣きで
「大ばかだ‼」とくってかかりました。今でもその時のことをはっきりと覚えています。

とにかく、毎日ブ―と遊ぶのが楽しくて、嬉しくて、癒されていました。
なので、私の手は傷だらけ。ある日知らないおばあちゃんに
「まあ、この手。苦労しているのね」と言われ、ネコだと言えず苦笑い。
さらに、ある日近所のアパートに住んでいた女性から電話があり
「そちらにブ―さん、いらっしゃいますか?」と。母は「今は留守ですが、なにか」と。
その女性はロシアンブルーのネコを飼っていて、ブ―が毎日会いに行ってたみたいで
いっしょにごはんを食べていたそうで、お宅でちゃんとごはんをあげているのかと言う内容で
母は巨峰を手土産にブ―を迎えに行き「うちでごはんは、あげているのでもうあげないでください」と。
その場にはいたくないバトルですよね。ブ―の写真もこれ一枚だけ、大切な奇跡の一枚。つづく

名誉会長のターちゃんの前に

2024年02月17日 22時27分32秒 | うちのにゃんズの話



結婚して最初に賃りたアパートはペット禁止。
(犬、ねこ、飼ってた人いっぱいいたけど)
でも、鳴かないウサギならと「色もの」って書かれたケ―ジに
可愛い小さい子が「この子にしよう」と、ダンナの一言で決定。
ネコっぽい名前のミーちゃんに。性別は(店員さんもわからず)生涯不明。
ウサギ用のごはんってあるんですね。小さいケ―ジから大きなケ―ジへ
すのこをひいて、ごはんとワラ、水が飲める専用ボトル、キャベツの芯、パセリ
げっ歯類なので噛むための木の棒、人参型の軽石みたいなの(一瞬で粉々に)
約6年、タ―ちゃんと仲良くしてました。
そういえば、一度目を回したことがあり、そこいらじゅうの獣医さんに
電話して聞いたら、驚くとそういう状態になるそうですが
当時はウサギを診察できる獣医師はほとんどいないと言われました。



まだ会社員だった頃、同じ時間にダンナと杉並の永福町の駅へ
駅近くのゴミ捨て場から子猫の鳴き声が、前日は雨で段ボールの中で
びしょ濡れになって震えていた子
なんて、こんなひどいことを
会社に電話して車で迎えに来てもらいました。
ビ―ビ―なくので、名前をビ―に。(女の子)
こんなにないたら、アパートでは無理だと思い私の実家で飼ってもらうことに
ビ―の写真はこれだけ。アルバムの一部しか持って来なかったので
兄と母の遺骨と共に流れてしまいました。


大いなる誤算

2024年02月16日 13時36分06秒 | うちのにゃんズの話
なぜ11年も空白だったのか、単純に忘れてただけなんです。
たまたま、写真の整理をしていて (老い支度とも言う)



↑これが出てきて(こざ)と(ひよ)のちびっこの時の写真がないなぁ…
え、えええ~‼ うそでしょ~‼
もしかして私のブログってどうしたんだろうか?
しかもこれ作ったヘッドで有料で、毎月210円
仕事から帰宅したとうちゃん(ダンナ)に、私のブログって
もしかして、そのまんま? 知ってた?
「知ってるよ、俺が料金払ってるし」 
何で教えてくれないの~
「聞かれなかったから」って、噓みたいな本当の話
で、なぜだろうか…私は今までの記事や写真は、ぜ~んぶ消えたぁ
と、思い込んでしまったさぁ~
ネットができるのは、スマホだ。とうちゃんに頼んでgooブログのアプリを
ダウンロードしてもらい「気まぐれネコめくり」を見てビックリ‼
ブログの機能がめちゃ変わってる…メルアドが分かる人には
先にブログを再開します。っと、一応のご挨拶。
再開したけど、スマホもパソコンも老眼鏡をかけないと文字がぁ~
ずっとかけていると目が疲れて仕方ないので、もう辞めようかなぁ~って
うちのにゃんずも私も、おとしだし、もうちょっと頑張ります。

こざにやられた骨盤骨折

2024年02月11日 17時57分21秒 | 日常の雑談
もう順番がバラバラだと思うのですが、東京のクリニックで出された処方薬の二種類は
とんでもなく依存性が高く今もへらそうとしてはいますが、
禁断症状で全身、手がガタガタとふるえが止まらなくなっています。
本当に毎日がつらい。依存性はないと言ったのに。
他に突発性難聴、顔面マヒ(瞼が閉じられない)、そして去年の夏のこと
(今は食事も寝床もキッチンの前にあるリビングです)こざが



↑こいつがこざ。キッチンカウンターから寝ている私のおなかめがけ
「腹へった~!起きろ~」とばかりにダイブを何度もやられましたさ~。
で、当時は妙に腰が痛いので某総合病院の整形外科でレントゲンを撮ったら
骨盤骨折!! 骨盤そのものではなく、内側に細い骨が何本もあるのですが
その細い骨の全部が骨折かひびが入ってる状態でしたぁ~
これだと、処置の仕様が無いから、家で3か月くらい安静にしてるしかないですね。
と、担当の先生に言われ、仕方なく引きこもり状態に。
家の中だけだと、歩けなくなるんです。
今年になって外に出て毎日少しずつ歩いてます。
歩くリハビリです。

幻聴でパニック

2024年02月09日 18時11分11秒 | 日常の雑談

だぶってしまいますが、ダンナの実家に引っ越したのが

2010年50代(だと思う~)

幻聴、大腸がんのことは書きましたが。(もっと前にも書いたかも?)

最初は二階で寝ていたのですが、踏切の音が一階より聞こえるんです。

実父をみとった時の医療機械(なんと言うのかわかりませんが)

その音とそっくりで、そのストレスで幻聴になり、

幻聴など初めてなのでパニックに

家のどこかに盗聴器がついているのか、

と思い込んでカーテンレールをぶっ壊し~の

盗聴器を見つける専門家呼んだりして、

夜勤の仕事から帰ってきたダンナはビックリ!

4にゃんを連れて私の実家があった東京の原宿へ(今はもうありませが)

わざわざ、ねこたちも連れて行かなくてもいいんじゃないの、

と言われたけど。落ち着いたので、一泊して戻ってきました。

とうちゃん(ダンナ)は、寝室を自分の部屋に

一人で荷物やたな、机を全部リビングへ

しばらくして、また幻聴が始まってしまい、

近所(ご近所さん、皆親切ですよ)

で親切にしてくださってるアイさんが、

専門の病院を教えてくださり

何度か通い、私がトラウマになっている話しをして、

処方薬を飲んだら一週間で治りました。


熱海の警察官と刑事さんに感謝

2024年02月03日 15時06分49秒 | 日常の雑談
うわ~、気になってまた書いてしまう。
これを書いたらお休みします。

ウリ、実兄があちらの世界に逝ってしまったとき
人ってあまりに悲しいと涙もでない。
ただ、ぼ-っとなり、記憶も所々消えてしまう。

兄を見つける前に、熱海から車でわざわざ鎌倉のうちまできて
ⅮNAの採取をされた、警察官と刑事さん
そして、見つかり私たちを駅前まで迎えに来てくだった警察官と刑事さん
しばらくして、兄の人柄を聞くためにうちにきてくださった警察官と刑事さん
遺体を探し出すために必死になってくださった関係者の方々、警察犬
「最後の一人まで、みつけだします」と言っていた警察官と刑事さん
心から感謝いたします。
まだ、一人見つかっていない方がいます。
その方とご家族にご冥福をお祈りいたします。つづく


2021年 最悪の1年

2024年02月01日 18時40分40秒 | うちのにゃんズの話

2021年は最悪な1年でした。
1月は、ダンナが肺の病気で一か月近く入院しました。
コロナの影響で入退院のときだけ会えるのですが面会禁止に。
ナ-スステーションに着替えと飲み物を置いて帰っていました。
ダンナの兄夫婦が金銭的にも精神的にも助けてくれました。感謝×感謝。

2005年7月3日にうちの子になった洋ネコのウリが
2021年3月2日に16歳で、☆に帰りました。
本当に中身が出ちゃいました。息苦しいほどつらかった。
これでも長生きだったんです。
洋ネコでも違う種のかけあわせは、体のどこかに異常が多い。
ウリの兄弟姉妹はもらわれてすぐにほぼ全部の子が亡くなりました。


そして、2021年7月3日ダンナが仕事から帰ってきて
兄が住むアパートの管理会社の人から電話で
私の兄と連絡が取れないとのことで、すぐにダンナがテレビをつけたら
熱海の伊豆山(いずさん)で土石流があったニュースが流れていました。
あの盛土事件です。土石流にのみこまれ亡くなりました。
遺体が見つかったのは一週間後でした。
以前に母の遺骨を持っていてもいいかなときかれ
別にいいよ。と言ってしまいました。
生前にひざが痛いと言ってました。
ケアマネージャーの方が説得してくださり、2か月間リハビリ入院をして
とても快適になった。と喜んでいたそうです。
私たちが知らなかったのは、たぶん負担をかけたくなかったからでしょう。
兄の命、母の遺骨もふくむ、多くの命全てが流されてしまいました。
同じあの日犠牲になられた方々にご冥福をお祈りいたします。
そのご家族方々にも、お見舞い申し上げます。つづく