徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

仏教と儒教~輪廻転生の関わり~

2020-01-03 16:56:42 | 随想

仏教と儒教~輪廻転生~

もうずいぶん昔になるがとても興味の魅かれる面白い本に出合った。

儒教における宗教的な面について述べたものであるのだが・・・・・

輪廻転生と先祖の供養

我が国の仏教は釈迦の説いた仏教とは全く違ったものになってしまっている様である。

我が国の多くの人々は仏教徒ではないにしても、仏教を信ずる人々と思われている。

多くの家庭では亡くなった先祖の回忌供養を仏教的に行っていると思う。

先祖の崇拝である。

輪廻転生、先祖供養とも釈迦の説いた仏教の根本だろうか。

釈迦は死後の世界はないと思っていたらしい、死後の世界については沈黙を守っていたという。

弟子の質問にも口を噤んでいたという。

何も言わないということは、死後の世界について、一切考えるな、というのが、釈迦の教えなのだろう。

死後の世界は考えるな。

黄泉の国は神話の世界。

この世に生あるものでは絶対に解き明かすことのできない世界。

そんなものを詮索して悩むなど愚の骨頂。

と言うことは、輪廻転生とも先祖供養とも矛盾する様に見える。

いや、見えるというよりも明らかに矛盾する。

輪廻転生は仏教の根本だろう。

死後の世界は森羅万象、生きてるもので、如何なるものも経験したものはいない。

だから、釈迦とて死後の世界があるとは言えないのだろう。

だが、釈迦は、善業を積んだ人間は死後に天上に生まれ、悪業を積み重ねた人間は死後に地獄に堕ちると言っている。

天国だとか地獄は明らかに死後の世界の事。

これは死後の世界の有無を、考えるな、ということと矛盾する

また、浄土と言う言葉も使っている。

この浄土と言うのも此岸の世界ではなく、彼岸の世界。

これはどの様に考えればいいのだろう。

これは仏を信ずるものすべてが、いや仏の言わんとすることを頭で理解できるものばかりとは限らない。

無知なものもいれば、理を尽くして説いても理解のできないものもいる。

その様なものに対して比喩的に話す必要から使われたものではなかろうか。

極楽浄土にしても、仏教では此の世は、苦の世界と言っているのだから、仏を信じることにより、生まれ変わりは極楽浄土と言えば、安らぎを得ると考えたのだろう。

仏教の重要な経典の一つに法華経がある。

この経典には比喩がたくさん使われている。

仏の言わんとすることを思想的に説いて理解できる者ばかりとは限らない。

仏教で、輪廻転生を基にすれば、魂として残るのは四十九日まで。

それ以後は、いずれかへ転生するか、成仏すると考えている。

転生してしまえば、先祖でもなんでもなくなってしまう。

成仏するとは、この世からは十万億土も離れた極楽浄土へ往くことである。

成仏したものは、仏として崇めればいい。

それ故、この考えを貫けば、先祖の礼拝も、供養も、況して墓などの必要なくなってしまう。

仮の姿であった、現世の姿は、死後は単なる抜け殻・・・・

焼いて灰になったものは土と同じ、河へ流そうが、海へ撒こうが、一向に構わないことになる、土にかえると言われる由縁であろう。

インドではこの考えが徹底している。

抜け殻は河へ流してしまう。

転生とは魂が再び何らかの身体をもった存在となることだとすれば、死者の魂が何時までも此岸の人間と関わりをもち続けるということもない。

死者は四十九日で転生すると言われていることを思うと、生きてるものは死者とは四十九日が過ぎれば縁が切れるのだから、先祖の祭祀も必要なくなってしまう。

四十九日までは、逝ったものが天上へ召され、、成仏するよう祈ってやるのが生きてるものの最後の務めなのであろう。

これが仏教の根本をなす輪廻転生であると言われている。

それ故釈迦は死後の魂、霊魂と言うものも認めてはいないのだろう。

では輪廻転生するものは何に転生するのか、人間に生まれ変わるとは限らない・・・・・

それがわからない。

人間に生まれ変わったとしても、人間の世は苦の世界。

釈迦自体も悟りを開き、解脱するまで、輪廻転生を繰り返していたと言われることが多い。

悟りを開き解脱するまで転生を繰り返すことになる。

多くの人は葬儀で焼香して拝むのは、誰を拝んでいるのだろうか。

多くの人は亡くなった人の冥福を祈るといい、それ以外は考えたこともなかろう。

祭壇の前に据えられた棺の中の遺骸を拝んでいるのだろうか。

仏教的には棺の中のものは、もう抜け殻でしかない。

それとも、逝った人のそこいらを彷徨う魂に祈りをささげているのだろうか。

拝むのは祭壇の奥にある本尊であるべき・・・・これが仏教的には正しい。

人それぞれの心の内にある、仏に祈りをささげる。

ではキリスト教などでは、神父の話を聞きながら、誰に何を祈っているのであろうか。

偶像崇拝を認めないキリスト教などでは、人それぞれの心の内にある神に祈りをささげるということであろう。

神に祈るとしても、それぞれの心の中に思い描く神は人それぞれの神。

願いを聞き届けてくれた神、危急を救ってくれた神、裏切られた神、人それぞれの心の中にはそれぞれの神がいる。

キリスト教では最後の審判での復活がある。

だから、火葬にすることは、余程の事でない限り行わない。

だから毎年命日には祈りをささげているという。

我が国などでも、天照は一人のように見えて、人それぞれの中に、それぞれの天照がいる。

それぞれの人の心の中に棲む神、人にはどんな神が住んでいるのか、計り知ることは出来ない。

閑話休題、何故先祖の供養と言って、仏教を信じていると言われる我が国の人々は回忌供養を執り行い回向しているのだろうか。

我が国の人々のほとんどは、先祖の回忌供養をし、お盆には迎え火を焚き先祖の霊を迎えている。

仏教自体の教義からは考えられないことである。

これについては、儒教が影響しているのだという人がある。

確かに、仏教が中国へ入った時、儒教の影響があったの否めない。

その仏教が、我が国へ伝わった時、我が国独自の儒教的影響を受けたとしても何の不思議もない。

儒教は儀礼性を教えるものだと思っている人も多い。

確かに論語などを読むと、儀礼とか政治とのことが多いように思う。

だが、仁義礼智信、および忠孝悌の五常八徳は陰陽五行の思想からよく言われる言葉ではあるが、この孝が重要な意味を持つ。

この孝は単に親孝行と言うだけのものではない。

孝の実践的な要請は、祖先祭祀と言うか、先祖供養、親への孝、すなわち父母の敬愛、子孫の繁栄である。

家族とくに親子関係を基軸とする、儒教独特の家族主義的な道徳体系が成立する、というのである。

尤も、お盆には供養をし、回忌の供養をするのは、生きてるものの心の負担を軽くするための単なる儀式と成り下がってはいるのだが・・・・・

いずれにしても、世の宗教と言われるものは、いずれのものも、愚だ愚だと色んなものを並べ立て、その根本原理と言うものを明確には示していない。

仏教者だと偉そうなこと言ってる坊主にしても、根本は何か、と聞いても明快には答えてくれない。

枝葉末節の事を愚だ愚だ並べたてるのが関の山、ちっとも根本には触れていない。

だから色んな奴がいろんなことを言って、その大元の教祖が、仏教では釈迦が本当に言いたかったのは何か、何を云いたかったのか、まるで分らないものにしてしまっている。

仏教の根本原理は何、と問うても帰ってくる言葉は数限りなくある。

いずれにしても、今の我が国の仏教は、釈迦が説いた仏教の根本から外れてしまっている、と思ってる人は多い。

儒教の宗教的部分が、色濃く反映していると言われても弁明に苦しむことになる。

釈迦にしても、キリストにしても、いかに優れた頭脳であっても、人間の浅はかな頭で考えた事柄には、計り知れない矛盾が、欠陥が含まれていることは否定できない。

その矛盾のために、その矛盾を繕うために、それを信じた後世の人間が苦しむことになる。

その矛盾や欠陥をどの様に取り込むかは、人それぞれの考え方に掛かっている。

善人は天国、悪人は地獄、輪廻転生といったところで、頭の中の出来事に過ぎない。

 

 

 

参考文献

儒教とは何か    加地伸行著   中公新書 


初詣余話

2020-01-01 14:34:42 | 随想

 

お正月は初詣と称して、神社仏閣へ出掛けた人も多いだろう。

天照であったり、八幡であったり、天神であったり、はたまた縁結びの神であったり・・・・・

釈迦であったり、阿弥陀であったり、薬師であったり・・・・・・

何かしら願い事をしてくるのだろう。

かく言う自分も子供の頃は初詣に出かけてこともあるのだが、それは友との遊びの一つであったと思っている。

除夜の鐘を聞きながら、人や仏閣を三つも四つも回って歩いた。

あの除夜の鐘の音が心に響いて、なんともすがすがしい気持ちになったのを覚えている。

東京へ出てからはあの延々たる行列を見ただけで嫌気がさしたものである。

小さな子供のころは祖母の影響か、神様仏様と特別な存在だと思っていたが、

何かをお願いすれば聞き届けてくださるなどと思ったことは過って一度も思ったことはない。

我が国の人々はこれ程神に対する畏敬の念を持っているのだろうかと、ついつい思ってしまう。

そも、神とは何ぞやと問いたくなるのだが、古くから神についての語源をはっきりと述べた人は無いと思っている。

ポケットの底の十円であったり、百円であったり、その程度で何を祈願し、どんな恵みを得ようとしたのだろうか・・・・・

あの雰囲気を味わいに出かけてみようと出かける人も中にはいるだろう。

年に一度の年中行事、初もうでの楽しみは楽しみとして、それで心が豊かになればそれに越したことはない。

只々、年に一回の気晴らしに出かけるのだから、何も多額の金銭を投ずることはない。

五百円だ、千円だ、況して万札などは馬鹿の骨頂・・・・・

多額のお賽銭は神の恩寵を受けやすいなどとは、思わないことである。

只々、神主や坊主を喜ばせるだけだから・・・・・・

古くから神とは何ぞや・・・・と問うて明確に示した人は先にも述べたが恐らく絶無。

とは言っても、創世の頃を書いたものは殆どが、カオスの中から神が現れている。

我々は目にするものを、己の知っている方に当てはめてものを認識し、確認できるから安穏に生活できるのであるが、

形の持たないものが現れることも、突如として眼前に現れることがある。

生きていくためには避けえない様々なものの中には、形のないものがたくさん存在する。

その最たるものが神と呼ばれるものなのかもしれない。

人間、形のないものは頭の中で思い描く、それを形あるものとして、認識できるものとして作り出す、

人間心の中に描いたものでは飽き足らず、目に見えるものに置き換えたがる、それが仏像であり、キリスト像である。

それがそれぞれの偶像と言うものなのであろう。

言葉は如何であれ、神と言うものを信じたいのなら、それは己の頭の中、というか心の中と言うか、己のうちにあると思えばよい。

祈るということは様々な願望を思い描くということであろう。

その心の内の神に祈りをささげ、己の願望を成就させるということは、その願望を潜在意識に沈めるということなのである。

潜在意識がそれを受け取ると、何時の日か必ず、現実のものとして現してくれるだろう。

ただ潜在意識がそれを受け取ったかどうか確かめる術はない。

切羽詰まった願い事があるのなら、沈思黙考、瞑想して、潜在意識に願望を沈めることである。

 

ただ並大抵の努力ではないし、必ず潜在意識に沈めることが出来るとは限らない、ということだけは確かである。

潜在意識に沈み込んだ事柄は、潜在意識はどんな手段を講じても、必ず現実の世界に姿を現すと言われている、学説がある。

それが奇跡であり、願望成就などと言われるものなのであろう。

閑話休題、世に伝わるもの、様々なものに書かれているものをもの見ると、この世の始まりはカオスすであったと書かれている。

カオスとは靄に包まれた、混沌とした塊りと・・・・

多くの神話と称するものが、それを範とした聖書などが、そこに神が現れて、様々なものを作ったとされているのだが、単なる物語の書き出しに過ぎない。

どの様にして、人間がこの世にあらわれたのか、いかに科学が発達しても、誰ひとり知る者はいない。

だが人間がこの地球上に現れ、神と言われる幻影を作り上げた。

それゆえ、人間が表れる以前、神などというものの存在はこの宇宙のいずこを探してもない。

人間の現れる以前に、神と言われるものが本当にあるとすれば、それは自然の現象であり、自然の摂理そのもののことである。

人間が誕生したころは、その崇拝する対象は、山であり海であり川であり、天空であったろう。

自然がおこす脅威に恐れをなし、それから逃れる事を考えたのだろう。

自然の脅威に畏怖する段階では神などと言う観念は現れてはこない。

ただ荒れ狂う自然の猛威の収まるのを願ったのだろう。

それが自然の崇拝となり、崇めることになったのだが、何時の頃からか、自然の脅威を抑えてくれるもがあるのではと考え始めた。

自然のあらゆるものに聖霊が宿っているのではと考え始めてもおかしくはない。

いわゆる精霊信仰、アニミズムである。

その頃は口から口へ言い伝えられて出来上がるのがいわゆる神話と言うものになるのであるが、ある時点から文字に置き換えられることになる。

口から耳へ、耳から口へと伝承されたものが、文字に置き換えられてしまうと、権力者が現れて不都合を感じる様になると、訂正され、削除され、

新たに書き加えられて、それまでの伝承とは全く違った政治的な史実が現れることになる。

自然信仰であったものに、政治的な色彩を帯びた神などが現れることになっても不思議はない。

それが我が国における古事記であり、書紀なのである。

その古事記などを見ても、神と呼ばれるものが数百も現れるに至っては、神の語源は何・・・・・を明らかにされるべきであるが、

現代に至るまで、明らかにされたことはない。

わが国で崇拝されている天照大神などは記紀がこの世に作出された七世紀に漸く日の目を見た神なのである。

天照大神などという神は記紀神話によってこの世にあらわれた神といえる。

古事記の序にある様に、時の権力者天武が帝記及び旧辞を検討して、誤りを正し、正しい姿のものを伝えようと計画したとある。

これは時の権力者天武に都合の悪いものは削除したり改変したりして、都合の良いように書き改めよということなのである。

書き改めたのはいいが、天武などという輩、己に都合の悪い記録はすべて破棄を命じている。

ここで資料として集められた古い資料は誤りであるとしてすべて破棄された、それが記紀以外の資料が存在しない理由であり、

記紀の真偽を確認することのできない理由であると言える。

天武が日本の歴史を不明確なものにし、あるいは歪めた可能性があるといっていい。

この様に我が国の史書なる記紀と言われるものは、権力者に都合のいい様に編纂された政治色の強い史書とも言えない史書なのである。

いずれにしても記紀という日本の歴史の大本は神話を取り込んで、事実と神話をごっちゃにした類を見ない歴史書といえる。

 

その様な考えが現れると、政治的な色彩の強いものとしての神・・・その様に考えるものが現れる様になったとしても不思議ではない。

天の神が天下って、天皇の始祖になった、などと天皇を権威づけるために利用したとしても不思議はない。

わが国の神話の神が天下って人間として民を支配したなど、とても日本の歴史などと認めたものだなと、馬鹿らしさが先に立つ。

ギリシャなどは神話は神話として、歴史とは完全に分離しているが、わが国の史書は神話も史実もごったにした、

そのようにして、信頼すべからざる史書が出来上がった。

人間の拙い脳みその働きであった。

特殊な能力を備えたものに煽られて、崇めるものの対象として、何者かを作り出したのが、神への崇拝の初めであったろう。

とは言っても、先にも述べたように、神とは何ぞやと問われても、答えることは出来なかったろう。

現今においても、即座に答えられる人は恐らくいまい。

この地球上に、人間以外の生きとし生けるあらゆるものが、神だ仏だなど必要もなく、命を全うし子孫を残している。

何百年も生き続けた大木も時期が来れば朽ちて倒れ、その中から新しい命を芽生えさせている。

この壮大な自然の摂理に比べると、たかだか人間の貧弱な脳みそが考え出した神などと言うものを信じろという方が無理なのである。

一生懸命神頼みしたが助けてくれなった、としょげ返る人が哀れ。

神などと高いところで、人間を支配するものがあるということを考えること自体が間違っている。

人間がこの世に現れて以来、自然の脅威にさらされて、恐れおののき、それを逃れようとしたその精神があれば十分なのである。

自然崇拝の頃は、人の口から口へと、物事は口伝で伝えられてきた。

文字が生まれ、様々に記される様になると、様相が一変する。

文字化した様ざまなものを取捨したり訂正したり、様々な改変が加えられるようになってしまう。

それが宗教的なものであったり、史実的なものであったり、作り出すものの恣意が加えられるようになってくる。

それが聖書であったり我が国の書紀であり古事記である。

時の権力の思うがままのものに変革してしまうと言っていい。

その様な中から自然崇拝であった神が、政治的な色彩を帯びた神へと置き換えられても何ら不思議ではない。

所詮は人間の拙い脳みそから生まれたに過ぎない神であってみれば、人間の行いそのものと何ら変わりなく、ただ一段高いところに置いたものとして扱うようになってくる。

失楽園のミルトンが考え出した神とは言云っても、天使の軍団と争いごとを起こし、武器の強弱の違いで、天使どもの反乱を抑えたに過ぎない。

ミルトンが考え出した神とはその程度のものである。

強力な武器を携えたものが、神であるなら、この世には神が氾濫していることだろう。

神などというものを作りだして、人間を支配しようなどと考えるものが現れてきても不思議はない。

その自然の驚異から逃れようと、頼るものを作りだし神と名付けても、人間共の観念の産物に過ぎない神であってみれば、自然の脅威など抑えきれるものではない。

何も政治的に作り出された神などと言うものに救いを求める必要も何もないし、その神が自然を支配することなど及びも付かないのである。

我が国に於いては、口伝で伝わって来たものが、文字化され、恣意的に取捨選択されて、作り上げられた記紀によって、形而的な神などと言うものが創り出され、

その手先として天皇がある。

文字のない頃から、口伝で伝わって来たものと、記紀に文字化されたものとは全く別物になったと考えていい。

記紀に書かれたものは作り上げられた神の子孫としての天皇家のために書かれたものと考えていい。

古来の自然崇拝の観念が政治的色彩を帯びたものに形を変えて、神としているに過ぎない。

ここで歴史を書こうとしたのではないので・・・・・

閑話休題、

ただ己の精神を平らかにするために、思い描いくものを神と称するのは人それぞれの思いであり、それをとやかく言うことは何もない。

その人にとって、気持ちが充足するなら、神を思うことで平安が訪れるなら、神と呼ぼうと、仏と呼ぼうと、はたまた宇宙と呼ぼうと、

呼び方など何でもいい、単なる言葉の違いでしかない。

言葉などは如何呼んでも良い。

所詮、神などと言うものは人間が思い描いた産物、形而上のものに過ぎない。

人間の脳の働きは、千差万別。

自分の考えを他人に強制することは暴力でしかない。

人それぞれ、何を考え何を思っているのか、外からは窺い知ることは出来ない。

人がそれを言葉として、あるいは文字として外界から認識できるようにして、初めて外部と接触し、衝突が起こり争い事が起こる。

たとえ、知能指数が百八十であっても、二百であっても、たかだか有限な考え方しかできないものが、自分以外を支配しようとするところに、争いが起こる。

人間だれしもが、心の中に持っているもの、それが過ぎると、人との争いになり地獄と言われるものになる。

一つひとつあげてみれば人間の欲や心に湧きおこる感情など、際限もなく留まるところを知らない。

色欲、貪食、貪欲、憤怒、暴力、悋気、吝嗇、阿諛追従、妬み嫉みいわゆる嫉妬、偽善、権力の乱用、裏切り等々人間の欲望は留まることを知らない。

 

暴力には戦争も含まれるだろうし、他人に対してだけでなく、自分に対する暴力もあろう。

この妬み嫉みと言われる嫉妬が様々な弊害をもたらす。

出る釘あるいは杭は打たれるなどと言うのは人間の嫉妬以外の何物でもない。

皆が信じ、崇め奉る神と言われる者でさえ、この嫉妬に対する怒りは激しい。

因みに、宗教について見れば、キリスト教などの神はこの嫉妬の塊かと思うほど嫉妬に狂っている。

それは旧約聖書の様々な出来事として書かれているが、すべて神、ヤハウエーの嫉妬心が惹起したものといっていい。

ギリシャ神話に、我が国の古事記や書紀に出てくる神と呼ばれる連中の、この嫉妬によって起こる出来事の話は荒ましいばかりである。

この神と言うものが、人間が己と同じ次元のものとして考え出したものだから、それは当然な事なのだが・・・

神などと言っても自分の意に添わないと、悪魔だと言って駆逐しようとする。

中世において悪魔だ、魔女がと言って、神を信じる輩によって、神の名を借りて、どれほど苦しみや死に至らしめた人々がいたろうか、計り知れない・・・・・

現代においては想像を絶するほどのものが、神の名において苦しめられ、殺戮された。

その様な悪行を犯している神と呼ばれるものが、地獄に落ちないのは不思議だ、と思ったこともあるのだが、

神って死なないとされているのだから地獄には落ちないよなあ~、等とつまらないことに納得している。