長崎県下の蒲団型太鼓台の呼称「コッコデショ」は、奉納時のクライマックスである太鼓山(太鼓台のこと)を高々と放り上げる際、指揮者・舁夫・乗子等の運行に携わる全ての人々が唱和する掛声「こっこでしょ!」からの命名であるのは論を待たない。この掛声の意味合いはどのようなことであり、長崎県下の太鼓台だけに共通する掛声なのだろうか、或いは他地方の太鼓台にも長崎県下と同様の掛声があるのだろうか。本稿では、掛声「ここでしょ!」にまつわる西日本各地間の関連に関する謎解きをしてみたい。まずは本場‣長崎の椛島町-かばしままち・コッコデショ。
数あるコッコデショの中でも、7年毎に長崎市諏訪神社へ奉納される長崎くんちの椛島町コッコデショが特に代表的で有名である。(現在の長崎くんちに奉納される担ぐ形の奉納物は、椛島町コッコデショ、上町-うわまち・コッコデショ、銀屋町-ぎんやまち・鯱太鼓-しゃちだいこ-が出ている)県内では長崎市をはじめ諫早市・大村市などの周辺各地にも分布し、市民の絶大な支持や好感・パワーを得る存在として大変な人気を博している。中でも樺島町コツコデショは、地元のテレビ放送(「太鼓山の夏」)や全国テレビ(ダイドウドリンコ「日本の祭り」)などで、太鼓台文化圏ではここだけではないかと思われる舁夫の公募をはじめ、長期間の練習の様子や太鼓台運行に関わる人々の並々ならぬ熱い思いが克明に紹介されていたことや、既にシーボルトの時代に当時のスケッチ(銅版画に写している)が遺されていて、歴史的にも確かな存在であること等も手伝い、大型で絢爛豪華に発達した太鼓台の多い四国や近畿圏などとは異なり、広い太鼓台文化圏の中でも、最も見事な奉納担ぎを行なう太鼓台として、磐石の地位を保持している。
樺島町コッコデショの奉納開始年代については諸説あるようだが、Webに発信されている膨大な『長崎年表』や長崎市の資料等によれば、寛政11年(1799)のこととされている。(寛政10年とする説もある。寛永11年・西暦1634年に始まったと一部にはあるが、これは長崎くんちの始まり年であり、コッコデショの登場とするには甚だ早過ぎる)
また、1832年に刊行された有名なシーボルト編纂の『日本』には、文政10年(1827)想定の長崎くんちにおける椛島町コッコデショの諏訪神社・社頭での奉納と見られるスケッチ画[出島絵師・川原登与助(慶賀)画 /上図は、当時の外国人職人が慶賀の絵を参考にした印刷用の銅版画であるとのこと。実際の絵画は色彩豊かな実写的な手書きであったと考えられていて、長崎の研究家の間では、その所在を捜査していると教示いただいた。慶賀筆になる当時の〝実画〟が発見されたら、更に正確な古の各地比較ができると思うのだが‥]が掲載されており、当時の椛島町コツコデショの規模や装飾の概要が分かる。スケッチが描かれた諏訪神社・社頭でシーボルトが直接奉納の様子を実見したかどうかは分からないが、当時の長崎市内に特別の滞在を許されていたシーボルトが、庭先回り(御花を戴くために市内各所を回る)の際に、市内のどこかでコッコデショを見ているのは間違いない。大書『日本』の1㌻一杯にこのスケッチが掲載されていることから、椛島町から出されたコッコデショ(長崎くんちではコッコデショをはじめ、蛇踊り・唐人船など各町から奉納される全ての出し物を、単なる奉納物としての位置づけではなく、より演技性の高い「奉納踊り」と称している)に対し、シーボルトは異国・日本の素晴らしい団結を発揮する伝統文化の代表として、西洋に紹介すべきものと位置付けていたのかも知れない。シーボルト時代のコッコデショ(1827年当時と想定)と現在のコッコデショ(1990年撮影)とを比較すると、蒲団部の枚数(3畳から5畳へ増)や舁棒の数(2本から4本へ増)とそれに伴う舁夫-かきふ-の人数増等、現在のものが明らかに大規模に変化・発展している。
更に、廻船を通じてコッコデショの奉納町・椛島町と関係が深かったと言われる熊本県天草下島の富岡でも、コッコレショ(地元ではこう呼称する)が伝えられている。富岡の古老からは、伝えられた時代には「富岡の方が長崎のコッコデショよりも豪華であった」との言い伝えがある。しかし富岡コッコレショの古形の写真(下の古いポスターからのコピー)や現在奉納されているものとの比較では、シーボルト当時の椛島町コッコデショと比べると、昔も今も富岡コッコレショの方が明らかに小型・簡素と判断できるので、この言い伝えは当てはまらないと思う。
古い形態では、舁棒(かき-)を井型に組んでいる。
さて、椛島町コッコデショの掛声の場合、その特徴は、
①一連の掛声は、沖往く廻船の様子が偲ばれるように、船乗りが用いたと思われる簡便で力強い掛声で繰り返されている。一糸乱れぬ担ぎ手達の合力がコツコデショ奉納の成功に直結するため、繰り返される掛声には、舁夫の彼等が共有できる簡便さと分かり易さ、それに力強さが求められる。また掛声の簡便さは、見物する人々に次のコッコデショの所作を予測させ、その場の観衆もコッコデショの奉納に声援を送り、人と太鼓台とが見事に一体化した興奮と感動の、得も言われぬ空間を創り出す。
②椛島町コッコデショが船乗りによって伝られえたと伝承されていることからも、掛声には、太鼓台分布が極めて多い西日本の各地(主として港町)の太鼓台文化との共通点が多々見受けられる。その共通点を詳細に解明していくことで、太鼓台文化の広がりや太鼓台文化圏の客観的な歴史を学ぶことにつながっていくものと考えている。
③太鼓打ちの乗子(長崎では、コッコデショも太鼓山と称するし、乗子も太鼓山と称することもある)も、舁夫の発する掛声に対し、これまた西日本各地に共通的に伝わる乗子の反り返り所作や間合いの掛声を発し、赤地の長い投頭巾と化粧姿の乗子の可憐さを一層引き立てている。
④コッコデショの語源は、「ここで、しょう」(「この場所で、力を合わせ、見事に奉納しよう」の意味からの略語であると思う)
椛島町コッコデショの奉納手順と一連の掛声については以下のとおりである。
<奉納手順>
①コッコデショの踊り場への乗り込み⇒②神前での整列・挨拶⇒③奉納開始場所へコッコデショを一時下げる⇒④飛ばせ&放り上げ⇒⑤回れ&放り上げ⇒⑥踊場からの退場
以上が奉納概要であるが、勿論一通りの奉納では観衆は済ましてくれない。四方から「モッテコーイ」のアンコールがかかると、④から⑥への所作が3回も4回も繰り返される。
<掛声>
①踊り場への乗り込み
アー、ヨー、 ヤー、 サー(複数回、体勢の準備)
ヤー、ホーランエー、ヨャサーノサー(「ホーランエー、ヨャサーノサー」の繰り返し。コッコデショ=廻船と位置付けられる-は、采(ザイ)振りの少年を舁棒の四方に乗せ、左右に揺れながら入港する。この光景は大変情緒豊かな風情を醸し出している)
②神前での整列・挨拶
指揮者の「シズメー」(鎮め)の合図でコッコデショを据える。
アー、ヨー、 ヤー、 サー(コッコデショを据えて静止する。船の着岸をイメージ)
③奉納開始場所へコッコデショを一時下げる
アー、ヨー、 ヤー、 サー
アー トニー 、セー(舁夫はくるりと方向転換する)
アー、ヨー、 ヤー、 サー(舁夫は再度方向転換し、次の④の所作に移る)
④飛ばせ&放り上げ
ヤー、トー 、バー、 セー(飛ばせ!でコッコデショを急前進さす)
ヤー、チャーント、 サイタヨナー、ヨヤショ(ちゃんと差し上げた。コッコデショの体勢を整える)
ヤー、コッコデショ、コッコデショ、コッコデショ(三度目の掛声でコツコデショを高々と放り上げ、片手で受け止める)
ヤー、コッコデショ、ドーナー(どうでしょうか、コッコデショの放り上げは)
⑤回れ&放り上げ
アー、ヨー、 ヤー、 サー(コッコデショを時計回りに90度回転し、すぐに元に直す)
マー、 ワー、 セー、マー、 ワー、 セー(コッコデショを時計回りに急回転する)
ヤー、チャーント、 サイタヨナー、ヨヤショ(④と同じ。コッコデショの体勢を整える)
ヤー、コッコデショ、コッコデショ、コッコデショ(④と同じ。コツコデショを高々と放り上げ、片手で受け止める)
ヤー、コッコデショ、ドーナー(④と同じ)
⑥踊場からの退場
アー、ヨー、 ヤー、 サー
アー トニー、 セー(舁夫はくるりと方向転換して帰る)
※一回きりの奉納でそのまま退場することはまずないため、③の後半の「アー、ヨー、 ヤー、 サー(舁夫は再度方向転換する)」に戻り、以下④⑤⑥を繰り返す。
※再入場した際に、担ぎながらの舁夫の法被の空中乱舞がある。また、観衆からは再入場を促す「モッテコーイ」のアンコールが鳴り響く。更には奉納を褒めたたえる「ヨイヤー」「椛島町、ヨイヤー」が奉納場面の随所で投げかけられる。
※なお「長崎くんち 椛島町コッコデショ」でWeb検索すれば、実際の諏訪神社での奉納の様子などが詳細に拝見することができる。太鼓台文化に携わる私たちにとって、「太鼓台とは何か、奉納とはどうあるべきか、太鼓台のあるべき理想の姿とはどのようなものか、見事な担ぎを支えた椛島町の長期間の鍛錬とは一体どのようなものなのか」等々、見事な奉納の奥に潜む“太鼓台文化の神髄”が垣間見えてくるように思えて仕方がない。時代を超えて受け継がれている太鼓台文化を、より一層愛着を持って探求していきたい。
( https://www.youtube.com/watch?v=7X-vaH7MiDg 諏訪神社社頭での奉納フルバージョン YouTube必見!地元テレビの放送バージョン)
次回以降は、椛島町コッコデショの掛声や乗子の所作における類似点を、広い太鼓台文化圏の中から探し出す作業をしたい。
(終)
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