太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

太鼓台文化、事始め

2021年09月04日 | 随想

最初は‥

1948年(昭23)生まれの私は、子供の頃から豪華な〝蒲団型太鼓台〟の中で育った。1973年(昭48)に転勤で郷里・観音寺から離れて、隣県の愛媛県松山市に移り住んだ。そこで初めて他地方の〝太鼓台たち〟を、あるイベント(1975.10愛媛のまつり)で見たことが、太鼓台文化と関わることにつながった。見た太鼓台たちとは、佐田岬半島・突端の西宇和郡三崎町の屋根型太鼓台・四つ太鼓、伊予灘に面した北宇和郡長浜町櫛生(くしゅう)の蒲団型太鼓台・四つ太鼓、燧灘の工業都市である新居浜市の蒲団型太鼓台・ちょうさの3台であった。新居浜のちょうさは、大きさといい豪華さといい、故郷・観音寺のちょうさとよく似ていた。三崎町の四つ太鼓と櫛生の四つ太鼓は、共に初めて目にするカタチであり、見慣れない簡素な外観に、強烈なカルチャーショックを受けたことを、今も鮮烈に思い出す。

〝これが、太鼓台なのか〟太鼓台と言っても、参加していた各地は三様で、台(中央の櫓組部分)に垂直に積み込まれた大きな長胴太鼓は三者同様であったが、その他は素人目にも規模や装飾の面で明らかに差があり異なっていた。イベントでは、最も大きく華やかだった新居浜のちょうさにはほとんど見向きもせず、簡素で小型の2台の四つ太鼓にくぎ付けとなり、その後ろを歩く羽目となった。その折の〝なぜ? これらが、太鼓台の仲間?〟という気持ちが、その後の「太鼓台のルーツを知りたい、自分たちの文化を深く理解したい」との、今に続くライフワークにつながったと思う。意のままに進まないことや幾度ものスランプも経験したが、ささやかにではあるが、何とか今日までこの道を継続することができた。

幸いなことに、愛媛県立図書館が勤め先の近くにあり、太鼓台に関する情報集めには〝最適〟であった。実は〝最適であった、はず〟の表現が最も的を得ていた。イベント見学後、憑りつかれたように愛媛県下の太鼓台に関する情報集めを試みたが、当時では、各市町村の民俗誌や郷土誌等を調べても、太鼓台に関する記述や写真等を、ほとんど目にすることは出来なかった。辛うじて目に留まった小さな記事に出会うと、すぐに電話や書面での問い合わせを行い、徐々に調査の手を広げて行った。最初は愛媛県下の情報集めから、それが四国の他の3県や中国・九州・近畿地方など、西日本・瀬戸内一円に広まって行った。

写真との縁

写真はイベント見学後に、初めて我流で始めた。それまではカメラや写真とは全く縁がなかった。上述の情報集めをする中で、〝これだけアンテナを張って太鼓台の写真を探したが、満足のいく写真には出会えなかった〟ことが、遅咲きの写真との関り理由であった。これからは〝視覚で伝える〟ことを、絶対に重視しなければならない。写真術の習得は、そのための自分に課せられた責務であると心に決め、取り組んで来たように思う。時代の流れで、写真はフィルムからデジタルへと完全に様変わりした。かってのように試行錯誤して現像をすることもなく、長時間暗室に籠っての引き延ばし作業も、A4までの小さな写真ならパソコン印刷がやってくれるようになった。若い頃には、いっぱしのカメラマンらしく、重い機材を大きなバックに詰め込んで出歩いたものだった。今は、軽量の小型デジカメがメインの取材カメラとなった。ただ、得たい瞬間を切り撮るスチール写真に思い入れが強く、動画撮影や近年のスマホでの撮影は自分の性に合わないのか、未だに未体験のままである。

見学した先々

各地太鼓台の実地見学は、イベントのあった75年頃からスタートした。最初は愛媛県下が主であった。宇和島から南の南予地方へは大いに通った。島嶼部にもよく通った。愛媛県下には実にさまざまな種類や規模の異なる太鼓台が伝承されていて、一通りの太鼓台分類(櫓型・四本柱型・平天井型・屋根型・蒲団型の太鼓台分類)が、自分の中で理解できるようになった。このことは後の各地見学の際にも大いに役立ち、〝分類の基準を持っている〟という自信めいたものが、各地見学の際にも物おじせず、〝より、深く探求したい〟姿勢を後押ししてくれたように思う。

太鼓台文化探求の分岐点となった太鼓台見学は、何カ所かある。これまでの自分の探求姿勢としては、簡素・素朴な太鼓台中心の〝数珠つなぎ的見学〟であったと思う。〝太鼓台分類の基準を持っている〟という小さな自信が、土地不慣れな見学地でも、不思議と平常心で接することができた。後の各地太鼓台に対しても、このささやかな太鼓台分類を通して〝各地の太鼓台は、その根っこは同じ。だから、同じ仲間同士〟へと変わっていった。太鼓台文化圏の各地同士が、単独ではなくそれぞれ関連しあって、近隣各地で影響し合い、広まり、発展していったことが確かな実感となっていった。次々と数珠つなぎ的に関連し合う太鼓台が待ち受けていたように思う。

分岐点となった見学太鼓台の例を挙げると、①南予地方の四つ太鼓ややぐら(様々なカタチに面食らった) ②佐田岬半島域の四つ太鼓(屋根型よりも蒲団型に出会ったことが大きかった) ③丹後半島域のだんじり ④種子島の太鼓山(鉢巻=蒲団?) ⑤隠岐の島のだんじり舞(ここにもあった!) ⑥紀伊半島・三重県熊野市のヨイヤ(枠蒲団型のルーツ?) ⑦長崎くんちのコッコデショ(間違いなく日本一!)、などが浮かんでくる。南予地方は、太鼓台文化探求のスタート点。佐田岬半島域は、鉢巻蒲団型太鼓台の宝庫。丹後半島域は日本海側分布の北限で、遠く佐田岬半島の太鼓台ともつながっている。種子島では、蒲団型太鼓台のルーツとも言える大きな鉢巻に接することができた。隠岐の島・宇屋のだんじり舞は、太鼓台の中でも簡素・素朴の最右翼で、太鼓台の誕生時を彷彿とさせてくれた。太鼓台文化圏の本州南端にある熊野市では、比較的発展した太鼓台でありながら、構造の面から各地との関連を大いに偲ぶことができた。椛島町コッコデショに接したときは、身震いするほどの感動に襲われた。伝統といい、担ぎといい、現時点では間違いなく〝太鼓台文化圏ナンバーワン〟の存在である。

太鼓台文化の現在位置

2枚目と3枚目の「太鼓台の発展概要図」の違いは、私自身の最近の見直しによるものであり、現在では3枚目の考え方へと移行している。即ち、従来は「平天井型」から、一つは「蒲団型」へ、もう一方は「屋根型」へ、ストレートに移行したものと考えていた。しかし、「平天井型」の次の段階には、平天井の上に〝布地よりも厚い、薄い座蒲団状〟を載せている太鼓台(1畳蒲団型)や、〝丸い鉢巻状の飾り〟を載せている太鼓台(1本鉢巻型)があり、これらの形態は、平天井型とも蒲団型とも分類できない中間的な形態で、次の「蒲団型へ発展する過渡期的形態ではないかと考えるに至った。そのため、「平天井型」と「蒲団型」との間に「前期蒲団型」として区分を設けたものである。(この項、2022.8.11追記)

〝体験人口2,300万人、分布地は西日本一円〟というのが、太鼓台と共に暮らす私たちの現在位置である。体験人口とは、太鼓台運行や見物する人々、更には各メディアからの情報を容易に得ることのできる〝太鼓台所在地の近隣又は同一府県〟を含んでいる。分布地の西日本一円というのは、その名の通り分布の濃淡はあるけれども、西日本の滋賀県~三重県を結ぶライン以西の西日本に分布している。(近代になって西日本の太鼓台が中部地方や北海道へ伝えられた例も、一・二例ある)

上記の広範囲な分布・体験状況に反し、我が国における太鼓台文化に対する認知度は、残念ながら甚だ低いと言わざるを得ない。各地の太鼓台文化を徐々に理解していく過程で、この文化には〝中央の研究者が少ない〟ことも朧げに分かってきた。伝統文化・太鼓台は、残念ながら単一の伝統文化としては〝認知されにくかった〟ことも、種類の多さ・太鼓台発展の幅の大きさ・分布域の広大さなどから、致し方が無かったのかな、とも思う。ただ文化圏の各地には、地道に研究や活動を続けられている多くの方々がいる。太鼓台文化の研究を一元的に集約し、その進展の道筋を客観的・合理的に指し示し、外に向かって発信していく〝太鼓台文化学会〟的な組織の必要性を、強く感じている。

上表は、私自身のこれまでの太鼓台文化遍歴を、➀研究スタート当初の目標 ➁その次の装飾刺繍の発展を学ぶこと 更に➂これからのしくなる時代を見据えた〝太鼓台文化と、どう向き合い、付き合っていくべきかを整理したものである。(この項、2022.8.13追記)

(終)


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