太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

北前船が、太鼓台文化の伝播にどのような影響を与えたのか。

2020年11月13日 | 随想

はじめに

1975年頃に太鼓台の分布地調査を集中して行っていた。その中で、太鼓台がかっての湊町中心に広まっていることが朧げにつかむことができた。瀬戸内にある各地の湊町、その先にある日本海側の湊町に的を絞って問い合わせ調査を試みた。というのは、最初に頭をよぎったのは「北前船」(きたまえぶね)の存在であった。北前船は、江戸中期から明治中期にかけて、春から晩秋の大坂-北海道-大坂の間にある主な湊々で「買い積み・売り卸し」を繰り返し、膨大な利潤を得たと言われている。北前船には主として北国や北陸地方の人々が乗り込んでいた。年1回の航海が終わると、冬に上方で船囲いをして郷里に帰った。〝太鼓台が大坂から瀬戸内にかけてこれだけ分布し、しかもインパクトの強い祭礼文化なのだから、北前船の寄港地や船籍地にも凡そ太鼓台が伝えられていたはず〟との淡い素人的予測で、私は各地への問い合わせ調査を続けた。

しかし予想はほぼ外れた。丹後半島より北の「北前船の里」と言われる各地には太鼓台は存在していなかった。現在でも、日本海側で各種の太鼓台が伝承されている地方は限られている。西から記せば、山口県の日本海側には存在せず、出雲の宇龍(うりゅう)、隠岐・島後(どうご)の宇屋(うや)、隠岐・島前(どうぜん)の崎(さき)、境港の外江(とのえ)、鳥取県大栄町由良、羽合町橋津、少し内陸に入った豊岡市城崎温泉、同市津居山、京丹後市各地(旧の久美浜町、網野町、丹後町、弥栄町等)等の各地までと、瀬戸内に比べると明らかに少なく、そこで太鼓台の分布は途切れている。以下は、現在Web発信されている日本海側の各市町村情報や個人発信のYouTubeなどからの情報を基に、ここで記した瀬戸内を出て日本海を北へ航海する順に太鼓台の現況を確認した。

日本海側・太鼓台の現況

宇龍の楽車(だんじり)不定期の奉納であるらしいが、その概要がうかがえる画像がある。ただ、だんじりの上部についてはまだ実見していなが、別な画像で屋根型であることが判明した。得られた状況によると、宇龍だんじりは天皇即位や改元などの大きな祝い事のある際に出るかどうかというものらしく、私たちが実見することも難しいようだ。

島後・宇屋のだんじり(舞)は、西郷港のすぐ北側の宇屋地区に1台伝わっている。ここは北前船の寄港地ではあったが、だんじり伝播に関しては北前船とは無関係であるようだ。四本柱も備わっていない太鼓台の祖型的カタチをしており、大坂からの流刑人と当時の庄屋との合作であると伝えられている。

島前の海士町にも崎村のだんじりとして1台が伝えられている。掛声からは島後・宇屋のだんじりとの関係が認められ、宇屋から伝わったとの伝承がある。カタチこそ四本柱が備わり、四方に花飾りをつけた太鼓台であるが、だんじりを担ぐ際の音頭は、宇屋だんじり舞と酷似している。直接にはまだ見たことがないが、過去のWebに画像が紹介されていた。 参考「海士町歴史文化基本構想」 H30.3、71及び97ページ」)

外江のだんじりは東西2台あり、破風屋根型の太鼓台である。2台は荒々しいぶつけ合いの喧嘩をする。

由良のだんじり画像が紹介されている。次の橋津からの伝播と言われている。

羽合町橋津の花車(だんじり)画像は、リンク先の動画の最後部に出てくる。

城崎温泉には破風屋根二段式の屋台(大だんじり)と、天井部分が備わっていない屋台(だんじり)の2形態がある。直接実見していないので、大だんじりの幕内部がどういう構造になっているのか不明であるが、天井の備わっていないだんじりは、櫓部分が長方形をしていて、太鼓叩きとして前後に2名が乗り込んでいる。円山川河口に位置する津居山のだんじりも、このカタチのもので、四本柱型太鼓台に分類される太鼓台である。(京丹後市網野町でも、城崎温泉や津居山同様の天井の備わっていないだんじりと同様のものが出る)

久美浜町のだんじりは、宵祭り用の軽量な「日和屋台」と本番奉納用の破風屋根型の「屋台」がある。こちらも櫓部分は長方形をしている。太鼓叩き2人が前後に乗っている。その背には豪華な飾り蒲団を掛けている。

丹後地方の、旧・丹後町や旧・弥栄(やさか)町では蒲団型の太鼓台となっている。間人(たいざ)では、薄い一体化した木枠蒲団の上に、丸みのある膨らみを載せているものもある。平(へい)や此代(こじろ)など丹後半島に近い地区では、鉢巻蒲団型の太鼓台(だんじり)が伝承されている。(下写真、左は平地区、2枚は此代地区)

以上、日本海地方を西から順にかっての湊町の各種太鼓台を眺めてきたが、但馬地方の幕などの豪華刺繍及び丹後地方の蒲団部の装飾以外は、切妻屋根型或いは破風屋根型や宇屋の櫓型など、簡素なカタチのものが多い。このことは何を意味しているのだろうか。但馬や丹後地方への比較的豪華な太鼓台の伝播は、私は海路からではなく、太鼓台文化の盛んな播州地方などからの陸路からの伝播だったのではなかろうかと推察している。

北前船が太鼓台文化を運んだか?

「北前船が〝太鼓台文化の伝播にどのような影響を与えたのか」‥結論から言えば「ほとんど無かった」ということではないかと思う。太鼓台が西日本の各地に広まった江戸時代後期の北前船の輸送方式が、船頭の勘や意思に大きく左右され、何よりもそれによる利潤拡大を追求する「買い積み・売り卸し」が主体である以上、一定の輸送費収入しか見込めない高価な祭礼大道具の太鼓台などは、遭難時等のリスクを考えると、恐らく交易の対象外であったのではなかろうか。また、上記の日本海側の各湊々に伝わる各種の太鼓台は、総じて小型・簡素なカタチのものが多く、装飾も比較的素朴なものが多い。このことは、無理に上方で購入してこなくても、地元でも調達できる可能性が高いことを示していて、地元の大工たちにも容易に作ることが出来たものと想像する。ただし、但馬地方の刺繍幕や丹後地方の蒲団部構造などは、京都や大坂及び播州の装飾文化先進地から、陸路を経てもたらされたものではないかと考える。城崎屋台の豪華刺繍幕は京都からの移入であり、但馬地方のだんじりの櫓部分が長方形であることや丹後地方に多く分布するだんじりの鉢巻蒲団は、播州地方の屋台にも酷似するものが認められている。結論として、日本海側の北前船の寄港地や船籍地に太鼓台がほとんど伝えられていないのは、北前船・経営の根幹である船頭による利潤追求の強い意志が、太鼓台文化伝播地の「太鼓台を受け入れたい」という意向と、必ずしも交わることがなかったということだろうと考えている。

余談ではあるが、瀬戸内各地の太鼓台導入当初の幕末期にあっては、太鼓台が殊更高価な買い物であったためか、各地の古文書等で大坂商人の直接的関与が確認されている。その一方、瀬戸内に比べ海難事故のリスクが高かった日本海側では、弁償額の嵩むこととなる高額な太鼓台を〝敢えて運搬しなかったということだろうと考えている。

(終)


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