太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

蒲団部構造に関する考察(1)

2020年09月04日 | 研究

はじめに

太鼓台の形態には各種多様のものがあることは、本ブログや発刊した各冊子等にて、その概要を画像と共に見てきた。今回のテーマとして捉えた「蒲団型太鼓台」も決して全てが同様の規模や構造ではなく、簡素・小型から豪華・大型まで千差万別の状況であることも理解できた。また蒲団型太鼓台以外にも、装飾感の異なる様々な太鼓台が存在することも客観的事実として納得できた。更にそれら各種類の太鼓台の全ての分布についても、概要ではあるが瀬戸内海エリア中心の分布地図で示すことができ、東日本には存在しないこの文化の広がりや体験人口等についての情報も提供してきた。言うまでもないが、そこで紹介した各地の各種太鼓台は、私が実際に見学させていただいたり、文化圏各地の方々から情報提供を受けたものばかりで、極力客観的視点を大切にした自負がある。

本テーマの蒲団型太鼓台の形態について興味深く論じたものとしては、観音寺太鼓台研究グループが刊行した冊子に次のものが掲載されている。(2013.3刊『太鼓台文化の歴史』内「共通理解・太鼓台文化」P5~20、2015.3刊『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化』内「太鼓台文化の共通理解を深める~蒲団構造に関する一考察」P72~107、2017.3刊『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化・Ⅲ』内「草創期太鼓台の探求~そのカタチを遡る」P66~109)<本ブログの「紹介図書・冊子」参照>

今回のテーマでは、上図の「蒲団型」枠内の各形態についての太鼓台が論述対象となる。

下図は、様々な形態の太鼓台の分布概要を示したものである。

今回のテーマとして取り上げた蒲団部に関しては、ただ単に各地太鼓台の蒲団部のカタチの特異性に注目しているだけではない。各地蒲団型太鼓台に対するこれまでのささやかな探求を通じ、文化圏の先人たちが、外観からは確認できない蒲団内部の形態に、それ相応の様々な工夫を凝らしてきたことが分かってきた。その結果として、遠隔地間の太鼓台同士にも蒲団部構造の共通点が多々見られていることを確認している。この文化圏では蒲団型太鼓台は分布数も桁外れに多く、ポピュラーな存在でもある。また太鼓台共通点の各地比較や考察を通じて発展過程を客観的に解明していくことも、現時点でもかなり可能である。蒲団型太鼓台の蒲団部が、各地太鼓台同士を互いに密接に結びつける存在として、間違いなく太鼓台の豪華や大型化の発展に深く関与していると私は考えている。そして改めて、蒲団部の解明なくしては「太鼓台誕生から発展等の生い立ちの歴史」がこれまでのように不透明のままとなり、このままでは文化圏の一体感醸成に不可欠な「客観的な共通認識が構築されない」との強い危惧を抱いている。

幸運が重なり、大型で豪華となった蒲団型太鼓台を繰り出している文化圏の著名な地方では、四本柱の上に高々と積み上げられた自太鼓台の分厚い赤一色或いは色違いの蒲団部が、これまで「ごく当たり前の存在」として深く掘り下げられることはなかった。誰もが現状の蒲団部の構造を、そっくりそのまま「過去の時代から受け継いで来た伝統の形状」と安易に認め合ってきた。そして、その誤った固定概念の奥に隠されてきた文化や歴史の真実或いは重み、必須であるはずの各地との共通点比較・確認といった核心部分を、私たちは殆ど気づくこともなくそのまま受け流してきた。伝統文化継承に厳しいこれから先、私たちの太鼓台文化が他の先行している伝統文化に伍していくためには、私たちはこれまでの固定観念を払しょくし、大いに反省し、遅まきながらも客観的な解明事実を着実に積み上げていかなければならないと思う。

以下は、記録して遺してくれた先人からの贈り物(抜粋)

上から、1798頃の『摂津名所図会』の蒲団太鼓、1820頃の加古川・神吉八幡の御先太鼓、1827頃の長崎・椛島町ココデショ(長崎の絵師・川原慶賀の肉筆画を参考にして、シーボルトの意向で製本印刷に適した銅版画に書き直したの。原画は探索中とのこと)、1835頃の西条・伊曾乃神社・神輿楽車。

蒲団型太鼓台の蒲団部をテーマとして論じる今回のブログを通じ、①「多種多様の太鼓台が互いに関連してつながっている存在」であることを、文化圏全体の共通認識として客観的に示したい。②各地の太鼓台がバラバラの存在で、自太鼓台が一番などという我田引水そのものの「太鼓台文化圏各地間の分断」(大・中・小型、豪華・簡素、類似・異種、他の太鼓台を顧みることをしない等)を阻止し、③長い時代の間、そのような排他的で狭い了見によって「太鼓台文化の客観的な解明」を遅らせてきたことを猛省したい。これまでは、太鼓台文化を広大なエリアの伝統文化とは認識できず、近隣の同形・類似の太鼓台のみを中心に据えた"偏った太鼓台文化"を論じることとなってしまった。このような方法論では、正確で客観的な太鼓台文化論を推進し発展さすことは不可能であると思う。井の中の蛙(一部分)をあれこれと捜し追い求め、肝心な大海(全体像)に少しも到達しなかったのが、これまでの「中途半端な太鼓台文化の解明」事情であったとも思う。

太鼓台に近い祭礼奉納物(山車・だんじり・山等)や神輿との関係

その結果、客観的解明の進まなかった太鼓台文化と、太鼓台に近い他の伝統文化との間には、素人と専門家ほどの大きな格差を生じてしまった。解明の進んだ他の伝統文化は伝統文化本来の評価や地位を得、そうではない太鼓台文化のように一体感の見られない各地バラバラの伝統文化は、どうしても置き去りされる結果となってしまった。記録上では、太鼓台が18世紀からの近世後期における集中的且つ各地同時多発的登場で、過去の状況が捉え難い文化であるのに対し、太鼓台に近いと目される各地の祭礼奉納物(山車・だんじり・山等)は、単独若しくは都市部等の比較的狭い範囲での登場が主となっており、太鼓台文化に比べると発生から発展への軌跡も捉え易く、過去の様子も絵画や古記録類に遺され易かった。これは文化の立地条件や経済力及び工芸・芸術力の差であると思う。

このように、太鼓台はかなり後発の伝統文化であることは間違いのないところと認識している。その一方で、太鼓台が祭礼神幸式で神様が乗るとされる神輿に近い存在であることにも注目されてよい。記録にも遺されてこなかった草創期の太鼓台が果たして存在したのか、それとも後年18世紀以降の記録が太鼓台の初見なのか。記録に遺るような発展を遂げた比較的豪華な太鼓台の近世期の集中的・同時多発的登場は、神輿の流布とも無関係であるとは思えない。

全く仮説の域を出ないが、文化程度の差が明らかな都市部の神社と地方の神社とでは、神輿の導入に際しても全国一律的な受け入れとはならなかったように思う。都市部では発達した工芸技術や経済力等により神輿の制作や流布は容易であったと思うが、地方ではそうは簡単に神輿が手に入らなかったのではないか。このような当時への想いから、私は地方の中小神社等では高価な神輿導入がかなり遅く、鳴動轟く大太鼓が一つあれば運行できた太鼓台の誕生を、「地方では、神輿よりも太鼓台導入が先ではないか」とも投げかけ注視してきた。

各地太鼓台からの情報発信が大切

いずれにせよ、太鼓台の代表的な形態の一つとして蒲団型太鼓台は存在している。その蒲団部の不明な謎を解明することによって、少なくとも蒲団型太鼓台の各地では、蒲団部を通してこれまで顧みられてこなかった文化圏各地との一体感は向上するのではないかと考える。太鼓台文化圏は「ひとつ」にまとまれるのではないか。その手始めがポピュラーな蒲団型太鼓台の、蒲団部の解明であると確信している。そのためには、蒲団部の各地比較は欠かせない。それぞれの太鼓台から、自太鼓台に関する蒲団部に関する情報発信を積極的に行っていくことが求められる。各地からの信頼できる情報の山々が、更なる文化解明の強い手助けとなるものと思う。

次回「蒲団型太鼓台の蒲団部構造に関する考察(2)」以降では、各地太鼓台の個性あふれる蒲団部の形状や各地間の共通性及び蒲団部発展の様子を、取材した画像等を添えて論じていきたい。

(終)


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