初めに
燧灘・伊吹島の3台の太鼓台に関しては、このブログでも幾度か触れているが、江戸期に大坂からの直接購入したものであることが判明している。今のところ、伝えられる確実な記録としては、〝蒲団枠保管箱〟に記された年号により、少なくとも文化2年(1805)まで遡ることができる。19世紀初頭のこの記録は、文化圏各地の判明している記録の中でも信頼性の高い古いものである。[「草創期太鼓台の探求-そのカタチを遡る」参照(『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化・Ⅲ』66㌻~109㌻、観音寺太鼓台研究グループ2017.3刊所収)}
伊吹島に限らず、動力船が存在しなかった時代の瀬戸内の島人たちは、代々自然と身についた巧みな操船技術や日々の生活に欠かせない各地との交易を通じ、現代人の想像をはるかに超えて、大都会・大坂をはじめ近隣する各地とも密接に繋がっていたことは間違いない。後に、庶民文化の華となる多数の太鼓台分布をみた瀬戸内各地は、いち早く導入を果たした近隣各地に影響を受け、或いは近隣諸地方に先んじて、一層華やかな祭礼となるよう太鼓台供給地の大坂から、より豪華な太鼓台を求め、競って導入に努めたものと思う。
太鼓台文化圏に対する伊吹島太鼓台の存在意義は、島の太鼓台が、幕末から明治期の大坂方面の太鼓台の面影をよく伝えていることを最大限意識できることにある。中でも、積み重ねられた蒲団枠の1畳が、辺毎にバラバラに4分割される蒲団部構造となっていることを挙げておきたい。これは、今日の私たちが最も知りたい一つである<太鼓台の豪華・巨大化>への解答にもなる。即ち、島の太鼓台の蒲団枠と、各地・太鼓台の蒲団枠とを比較することによって、太鼓台の発展過程が客観的に理解できるためである。また伊吹島には、蒲団枠以外にもさまざまな〝客観的な文化遺産〟を数多く伝え遺している。これら諸々の歴史的な遺産を生かした〝太鼓台文化の解明に貢献する〟ことも、島としては十分に可能である。太鼓台の高級化が飛躍的に進んだ幕末期、伊吹島太鼓台の〝先と後〟の各地太鼓台の情報を、正確・公平に関連付けることで、島は文化圏各地との架け橋にもなれる存在である。なお、島の太鼓台を含む文化圏各地の太鼓台・蒲団部構造に関する探究としては、「太鼓台文化の共通理解を深める-蒲団構造に関する一考察」(『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化』2015.3観音寺太鼓台研究グループ刊・所収、文化圏各地の主な図書館等に蔵書)に、関連画像を付して各地比較も試みている。また伊吹島太鼓台を詳しく紹介したものとしては、下記『伊吹島研究資料叢書(四)伊吹島太鼓台資料集』(2009.9伊吹島研究会・刊、観音寺市立中央図書館等に蔵書)があるので、両冊子をぜひご参照にしていただきたい。
以下に紹介する南部(当時の中若)の〝見積書・猩々緋太皷御蒲団 五畳〟は、200年以上も前のものである。解読を進めると、業者からの見積書を、頭を突き合わせながら相談しあう当時の人々の息づかいさえも感じ取れるような完全なカタチのものであることが分かった。古い時代の痕跡がなかなか遺らない私たちの太鼓台文化圏にあって、江戸時代の〝今〟を、後世の〝今〟に伝える太鼓台文化の一級史料として、甚だ奇跡的な遺産であると思う。
前記の『伊吹島太鼓台資料集』の中には、当時の〝中若〟(現、南部太鼓台)が、天保4年7月(1833)に太鼓台を新調(拵え直し)した際に記録が始まる『太皷帳』が紹介されている。またその直前(同年5月1日)に、中若連中が大坂の呉服商・小橋屋(おばしや)から徴した、上掲の〝見積書・猩々緋太皷御蒲団五畳〟も掲載されている。両者は密接に関連していて、見積書の内容を縷々検討して、太鼓台は発注し新調されたものと考えられる。ただ、同『資料集』に掲載されている〝見積書・猩々緋太皷御蒲団五畳〟の内容には、明らかな今日的誤謬がある。そのため、古文書の解読を含め、上記にて全面改訂し情報発信することとした。そして、書かれた内容を、掲載以降も実見してきた各地の太鼓台事情と比較吟味しながら、蒲団型太鼓台における発展拡大期の客観的な状況把握に努めてみたい。即ち、見積書等から見えてくる当時の蒲団型太鼓台の装飾が、客観的に判断してどのような段階のものであったのか。更には、文化圏各地の見学や探求から判明してきた蒲団型太鼓台の過去を、伊吹島の太鼓台遺産を通じて論じてみたい。また、各地比較や各地の実態確認等を通じて垣間見えてきた、当時の太鼓台の供給元である上方商人側の〝太鼓台の販売戦略〟等についても、想像を膨らませることができたらよいと思う。
見積書の記載内容について、詳しく眺める。
この見積書は、伊吹島に伝承されている3台の太鼓台(古い順に上若=西部、下若=東部、中若=南部)のうち、中若太鼓台の新調(=太鼓台の拵え直し)記録文書である。『太皷帳』に書かれている買入内容の基になる見積書で、太鼓台購入先は大坂の呉服商〝平井・小橋屋〟(おばしや。三井・越後屋、大丸、岩城・枡屋、平井・小橋屋が大坂の四大呉服商)である。小橋屋からの複数提案の中から、地元・伊吹島中若連中としては、どのランクの商品を選択したかが客観的に知ることのできるものとなっている。見積書の末尾に押された店の印形を拡大して参考添付する。それには「○に小の字・ひらい」とあり、「現銀かけねなし、京店三條通堺町、(本店)大坂南御堂前かど、おばしや兵之助」とある。(おばしや・小橋屋については、ROSSさんのブログ「南御堂の小橋屋呉服店」が大いに参考させていただける)
(A)猩々緋太皷蒲団
まずは高価な猩々緋を、次いで比較的安価な猩々緋本緋フェルトの購入を提案をしている。その上で、無地の布地の上に高価な〝雨龍か何ほどかの縫〟を施すことを勧めている。〝蒲団部への刺繍〟に関しては、伊吹島では提案に応じることはなかったが、次の文化圏各地(順不同:小豆島豊島家浦・倉橋島室尾・京都府木津川市木津・『摂津名所図会』の太皷)では、恐らくこの見積書と同様の刺繍付き蒲団部が採用されている。このうちの倉橋島室尾では、水引幕の裏に伊吹島・東部太鼓台の水引幕を制作した大坂の〝奥田久兵衛〟の名前が墨書されていた。[文献『地車請取帳』(明治10年9月吉日起し、兵庫地車研究会刊)の25及び82㌻(明治31年頃)に、「大坂南区西清水町・佐野屋橋南角・ぬい屋・奥田久兵衛様」とあることから、奥田久兵衛店の活躍時期はこの頃と推測できる] 〝高額なものを、大きな利益が期待できる商品〟を売ることが、今も昔も商売人の真骨頂である。ひとたび売ることができたならば、太鼓台は特殊商品なので、次回以降も同じ業者が受注する公算が大となる。現に、島では3台の太鼓台共、平井・おばしやを通じて導入している。(蒲団部への刺繍の下記写真は、左から小豆島・豊島家浦、摂津名所図会の太皷)
(B)水引幕
幕地は猩々緋で、幕の縁(へ)りは小石縁り(小石=石と砂の大きさの中間位の大きさ=を散らしたような縁)にしている。乳(=幕を巻き付ける縄を通す穴付き装飾)は、光沢のある滑らかな絹織物(=綾子・リンズとも)にしている。注目したいのは、今日的な豪快な武者絵図柄や龍などの聖獣ではなく、刺繍紋を提案していることである。まだまだこの時代の地方の太鼓台では、武者絵的図柄は言うに及ばす龍や唐獅子などの聖獣等は、水引幕刺繍には採用されていなかったものと考えられる。A項で紹介した蒲団部には、かなり豪華な刺繍を施すよう提案されているが、蒲団〆の装飾内容が記されていないこと、このB項の水引幕にも紋程度の刺繍の提案しかされていないこと等から、見積書の天保4年頃の太鼓台装飾(=水引幕や蒲団〆の刺繍よりも、蒲団部への刺繍が重視されていたか?)の規模が想像できる。(下記写真は、左から文政3年1820製と思われる呉市豊町沖友の櫓の梅鉢紋、明治31年頃の木津川市小寺の太鼓神輿の幕の紋)
(C)上蒲団等
この上蒲団(うわぶとん)は、5畳蒲団を上から押さえる〝蒲団押え〟のことであると思う。今の時代では、太鼓叩きの座る場所から蒲団部の内部を見上げると、空が見えるような空っぽの構造が多くなっているが、元来は蒲団部そのものが密封されているのが当たり前であった。太鼓叩きの乗り子の直ぐ上は格天井や格子障子で仕切られ、蒲団の天も完全密封か、中から作業で登り下りするための小さな穴しかなかったのが普通であった。蒲団の天部へ登っていくには、梯子や縄梯子を用いた。そのような状況であったため、蒲団押えは必須であった。その四方に金糸・龍の縫を施すととの提案は、もし客からAの〝四方正面に本金・雨龍など〟の縫の発注を受けた場合、その上部への続きとして蒲団押えにも同様の縫を施す必要があったため、このような提案が為されたものと思う。Aに比べ〝上品〟で約4割の見積り額となっているのは、蒲団の厚みが5畳蒲団の1畳よりもかなり薄いことによるものと思う。因みに伊吹島では五畳蒲団に刺繍を施してないため、当然ながら上蒲団には刺繍はなかった。ただ、徳島県三好市山城町大月の太鼓台では、7畳蒲団の上の8畳目の蒲団(蒲団押えが変化したものと考えている)に、雲形文様が施されている。裏には〝安政五年〟の年号が書かれていた。なお、愛媛県西条市の〝みこし〟(蒲団太鼓台型だんじりの呼称)では、8畳の蒲団を重ねている。
なお、天部への刺繍装飾については、先の倉橋島・室尾や、屋根型だんじりの三豊市詫間町・志々島だんじりの天幕刺繍がある。
(D)とんぼ結
伊吹島太鼓台の〝とんぼ〟は黒で、網を被せている。(西部=先端部分に網、東部=ほぼ全体に網掛け、南部=先端に雲形文様の刺繍付) とんぼの中身は、綿・藁・もみ殻・燈心(イグサの髄)などと各地で異なっているが、東部太鼓台では燈心が詰められていた。近隣の各地では、近年は発砲スチロールの小さな粒々を詰めている。綿・藁・もみ殻・燈心などは経年使用により痩せて容積が減じてくるため、各地では同じ詰物を、補充箱等に入れて予備として確保していた。写真は三豊市詫間町・箱浦屋台のとんぼと保管箱(うち1箱が詰物の保管箱である)と、徳島県三好市・馬路太鼓台の〝蜻蛉(とんぼ)補従入箱〟の蓋書き。(馬路太鼓台の道具箱や装飾刺繍等については、別途紹介する予定です)
(E)白木綿下〆
古い形態の蒲団〆は細長い作りで、その両端に龍の刺繍などの飾りを縫い付けていた。現在では、特に四国北岸地方ではこの部分が巨大化し、幅も広く厚みも分厚くなり、5畳蒲団のそれぞれ一面に阿吽の龍などを一対、計8枚に分割して装飾している。伊吹島太鼓台では、前者の細長い蒲団〆を採用している。このような細長い蒲団〆を採用している地方も数多い。〝白(しろ)木綿の下〆〟とは、5畳の蒲団部を固定するため、細長い蒲団〆の下で、予め縛っっておくための紐状の〆帯ではなかろうか。島の太鼓台の蒲団枠は、比較的規模は大きい。5畳蒲団が辺毎にバラバラに20本に分割される構造なので、蒲団部をカチッと形作るのはなかなか骨が折れる。
(F)更竹蒲団
更(さら)は新品の意味で、新品の竹御蒲団(竹が主材の蒲団)が4畳、1畳当たり約1.3万円とかなり安い。綿を入れて仕立てていることから、緩衝材的な用いられ方をしているものと思われる。このことから、5畳蒲団のそれぞれの間に挟めて用いられたものではないかと想像した。因みに西部や東部の太鼓台では、現在も五畳蒲団の重なる四隅へ三角の小蒲団を挟めている。(左から、西部と東部の太鼓台。東部では、五畳蒲団の上にC項関連の薄い上蒲団が確認できる)
(G)角房
角(すみ)房は、蒲団の四隅に装飾する小房のこと。積み重ねられた蒲団の数が5畳なので、5×4で20と、数が合う。
(H)籠枠
伊吹島3太鼓台の蒲団枠は、外の丸み部分は竹籠編み、中の土台となる部分は板張りとなっている。今日なお神聖な存在の竹は、つい最近の時代まで〝強く・軽く・美しい〟として、ものづくりの万能素材であった。なお、蒲団型太鼓台における蒲団部形態については、各地太鼓台において様々なカタチを今に伝えている。私たちは、島の太鼓台の蒲団部・探求を通し、各地太鼓台の蒲団部とをつなぎ、未解明の太鼓台文化を明らかにしていかなければならない。
(I)太皷合羽
雨風の悪天候時や夜露等への対策として〝太鼓台を覆う合羽〟(主には蒲団部を覆ったカタチか。今日のビニール・シートカバーに相当する)の提案である。詳しいカタチは不明であるが、東部太鼓台(下若)に、これを保管していた明治5年1872)の箱蓋が遺されていた。
(J)水引幕
B項関連で、割安品の提案。
(K)後書き
地域の事情等により値引きもできる旨が提案されている。この見積書が全くの新調を意識して徴収したものではないことが、太鼓台には必須の蒲団〆や、彫刻類及び太鼓台本体(こちらは先代のものをそのまま使う場合が多々ある)等の提案がされていないことからも想像がつく。なお伊吹島には、太鼓台を新調(拵え直しを含む)した際の南部及び東部太鼓台の粗(あら)図面が遺されている。残念ながら現時点では年代特定は難しい。(左から、南部2枚・東部1枚)
(終)
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