〝雲形を彫刻した雲板〟より、更に〝その前の時代の雲板〟を探求する。
前回の雲板・考察(1)で、私たちは、150年ほど前の四国地方の大型太鼓台の雲板を眺めることができた。そこでは雲板が、その名の通り〝雲形だけを彫刻した四角の板〟であったことが理解された。私は、更に古い時代の雲板の発展過程を理解するため、〝ルーツ的雲板〟を含む発展途上の雲板の諸相について、各地の実見を通して客観情報を蓄積していくことにした。その過程で、太鼓台の最終発展段階に位置する蒲団型太鼓台が、今日のように豪華・重厚・大型なものへと移行・発展してきた陰には、雲板の大型化や堅牢化があったことを自ずと理解することとなった。以下に画像等で紹介していくが、雲板は、最初から大型でも堅牢なものではなかったことも判明した。私たちは、雲形の彫刻だけが主流であった約150年前の雲板から、更にそれ以前の簡素・小型であろう〝ルーツ的な雲板〟を、ぜひ眺めてみたい。その作業は、太鼓台が大型へと発展してきた過程を、雲板側の客観的事象を通じて解明していくこととなり、雲板の発展が蒲団型太鼓台の発展に不可欠のものであったことが実証されていくはずである。
上の写真は、櫓部分に大太鼓を積んだ種子島の〝太鼓山(ちょっさー)〟である。この太鼓山の一代前は、今よりも一回り小型であったと聞いた。その構造は簡素で、平らな天井(格天井)に大きな紅白の輪を積み、四本柱には榊と同様な常緑樹の椎の木と日の丸を飾り付けている。大きな鉢巻状の輪は、蒲団型太鼓台の〝蒲団〟に相当する。言わば、平天井型から蒲団型の太鼓台へ移行した〝過渡期的な太鼓台〟と位置付けられる。太鼓山の格天井(=平天井、最後の写真)が、後の各地の蒲団型太鼓台の発展に併せ、堅牢な雲板に発展していったものと推理している。
私たちはこれまで、雲板は太鼓台の構造上に〝あって当たり前〟として、或いは、昔の雲板に〝雲形の彫刻があったから雲板と称する〟として、雲板そのものを単なる蒲団型太鼓台の構成部位としてほとんど深く理解しようとしてこなかった。蒲団と雲板とは、そもそも〝全く別なもの〟との思考から、今回のように雲板に重きを置いて言及することはなかった。しかし今日の私たちは、蒲団型太鼓台の各発展段階〝本物蒲団→鉢巻蒲団→枠蒲団(各辺分解枠→各段分解枠)〟への変化・発展が、雲板の規模や強度と極めて大きく関わってきたことを、ようやく理解するに至った。雲板がどのような背景から誕生し、太鼓台の大型化にどう影響し、関連しているのか等、雲板と太鼓台発展との関係性解明なしでは、真の意味での太鼓台発展の歴史も、客観的解明が為されないまま終わるのではないかと危惧している。
屋根型太鼓台の発展推移と、各地の神社神輿との関連を探る。
太鼓台は、それまでの櫓型や四本柱型の時代から平天井型へと移行して、初めて豪華・大型化への可能性が増してくる。冒頭の「太鼓台発展想定図」では、平天井型太鼓台が簡素・小型なそれまでのルーツ的太鼓台(櫓型・四本柱型)の流れを一つに束ね、次の発展段階の屋根型と蒲団型へと分岐していく様子が図示されている。平天井型から分岐したこの段階で、特に蒲団型太鼓台では〝雲板の発展〟が、その後の太鼓台大型化への発展に大いに関わってくる。
ⓐ私は、屋根型太鼓台の発展過程が、各神社の〝神輿発展〟と、大いにリンクしているのではないかと思う時がある。神輿屋根型を発展の頂点とする屋根型太鼓台と、各神社で出されている神輿との関連についても、一通り言及しておきたい。各地で見られる今日の神輿は、中世大都市の著名神社で発生をみたとされている。更に時代が下がり、地方の主要な神社の神輿神幸に影響を与え、そこから各地の祭礼に広まり、一般的な流布に至ったのではないかと考えている。そのような意味では、一般的な末端の流布に該当する今日の地方神社における神輿は、個々の史実はどうあれ、全般的には相当に時代が下った頃の発生や導入ではないかと言うことになる。
屋根型太鼓台の諸相。左から順に、南予地方・旧内海村〝四つ太鼓〟、徳島市勝占町〝よいやしょ〟、淡路島・旧三原町〝投げだんじり〟、鳥取県境港市外江〝だんじり〟、今治市宮窪町〝だんじり〟、京丹後市久美浜町〝屋台〟、広島県矢野町〝ちょうさい〟、香川県三豊市詫間町志々島〝だんじり〟、奈良県宇陀市榛原町〝太鼓台〟、兵庫県佐用町三日月〝屋台(姫路地方からの伝播)〟、姫路市〝屋台〟。このように屋根型太鼓台の分布は太鼓台文化圏の多岐に亘り、さまざまなカタチがある。最後の2枚からは、神輿屋根型の発展状況が理解できる。平天井型から分岐した屋根型の太鼓台では、最初は丸みの屋根を持つ簡素な丸屋根型となり、次いで見栄えの良い切妻・破風屋根型、最後は最も豪華に発展した神輿屋根型として登場する。
ⓑ〝神輿のカタチ〟を、神輿屋根型を発展の頂点とする屋根型太鼓台側から振り返って類推した場合、神輿屋根型は最も発展した後代の登場であるため、各神社の神輿においても〝丸屋根や切妻・破風の屋根〟の簡素なカタチが、現在の神輿よりも早い時代に存在していたのではないかと想像している。私はその理由として、神輿と太鼓台とに共通する荒々しい担ぎ方(横倒し・投げつけ・転がす等)を例に挙げている。(2017.3刊『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化・Ⅲ』所収「草創期太鼓台の探求-その〝カタチ〟を遡る」⑷⑸神輿からの影響、「横倒し」等する各地太鼓台一覧 99~105㌻) 現在、太鼓台が登場している地方の神社などでは、もしかすれば今日的な豪華な神輿よりも、案外簡素なカタチの神輿が主流ではなかったかとさえ想像している。なぜなら、高価で高尚な神輿を入手できなかった地方では、屋根型太鼓台の発展図式に照らし合わせ、より安価に入手できる簡素な屋根を持つ神輿を、自前で拵え導入した可能性があったかも知れないからである。
Ⓒ自論ではあるが、更に論を進めていくと、伝統文化を通じ現在と直結している近世後期の地方の神社では、〝神輿が先か、太鼓台が先か〟という発想にも辿り着くのではないかと考えている。誕生や流布における神輿は、太鼓台との比較において明らかに古い歴史を持つ。太鼓台は、神輿の影響を大きく受け、後塵を歩んできた。しかしながら、神輿と同等或いは神輿以上に存在感のある大掛かりな奉納物として、先人たちは簡素・小型の〝ルーツ的太鼓台〟を、今日的な高価で煌びやかな神輿よりも、早い時代に登場させていたのではないかとも想像している。それが、冒頭の「想定図」に示した櫓型や四本柱型の太鼓台ではなかっただろうか。両太鼓台は、大太鼓と台を構成するいくらかの丸太さえあれば、十分に高価な〝神輿の代役〟として存在できる。平天井型より以前のルーツ的太鼓台の登場は、案外、当時の〝高価・豪華な神輿の代用〟という現実的発想から、少なくとも地方の無名に近い中小の神社では、神輿よりも先に導入された可能性があるのではないかと考えている。
平天井型から蒲団型太鼓台への移行は、なぜできたのか?
ⓐ四本柱と高欄で囲まれた太鼓叩きの乗り子が座す四角のエリア・空間が、太鼓台構造上の〝聖域〟であることは、何人にも疑う余地はないだろうと思う 。太鼓台は他の伝統的な山車文化などと比較すれば、その歴史は間違いなく浅い。陰気を消し陽性を招く大音響の大太鼓が、太鼓台草創期以来、一貫して太鼓台の主要構成物であった。太鼓台は、その誕生の時からして既に〝神聖なること〟を強く意識されていたものと考える。最も初期段階にある櫓型太鼓台でさえも、乗り子座部周りの高欄に注連縄を巡らしているものがある。
高欄周りに注連縄を巡らす島根県隠岐島道後・宇屋のだんじり。始まりは享和3年(1803)の大坂からの伝播で、形態は四本柱もない櫓型太鼓台に属す。
竹笹や四本柱を四隅に建てた発展途上の四本柱型太鼓台でも、梵天(ぼんてん)や榊(さかき)・紙垂(しで)などで四本柱を装飾したり、四本柱同士を注連縄などで結び、聖と俗とを隔てる結界としている。同一の太鼓台文化圏におけるこの〝聖域思想〟は、乗り子の座す四角の空間が、ただならぬ意識の上に存在していることを物語っているのではなかろうか。
四方に竹笹を建てて注連縄を巡らしている吹田市千里佐井寺の太鼓は、櫓型から四本柱型太鼓台への過渡期的太鼓台である。(前2枚) 四本柱型太鼓台の呉市安芸津町三津口のだんじり(中央)と、広島県斎灘に浮かぶ呉市豊浜町斎島の櫓(やぐら。寛政6年1794、兵庫県尼崎市から、活魚船関係者から伝えられている。コピー写真は、私家本『安藝国斎島の傳承と産土蛭児神社』越智正道氏著より転載)では、2地区とも紙垂を四本柱の先端に飾っている。最後は尼崎市の辰巳太鼓で、四本柱の先端に梵天を飾り付けている。
ⓑそして、この神聖なる四角いエリアの真上に〝天井を設ける意義は何〟であるのだろうか。人々は、大音響を発する大太鼓そのものが、神々が天上から降臨してくる際の目印(耳でキャッチする)の〝依り代〟と考えていたものと推理している。平天井型太鼓台では、天上の神々からは天井が丸見えとなる。平たく言えば、神が依りついてくれなければ、太鼓台の神聖さの無意味で、祭礼供奉の存在意義も失ってしまうと考えたものと思う。天上から地上を眺める神々からは、太鼓台は大音響以外にも、二重三重に〝より素早く目につく存在〟でなければならない。平天井型太鼓台を有する地方の俗謡に、〝空は五色の張天井〟と、市松模様のカラフルな色彩の天井装飾が見られていたのは、天上の神々が見つけ易すくするための〝カラフル天井〟であったものと思われる。更にもう一つ。天井には〝実際的な効果も期待できる〟と考えられたのではないか。乗り子や大太鼓を、雨風や日照から保護するという実際的な目的や、天井と四本柱とを固定して太鼓台に強度を持たすことも、四本柱型太鼓台に天井が新たに設置された一因ではないかと考えている。それまでの櫓型や四本柱型の簡素な太鼓台から変化・発展した平天井型太鼓台には、このような聖と俗の要因を携えて、より華やかに、より大きく、そしてより神聖に、発展・登場してきたものと推理する。そして、その天井部分が雲板となり、堅牢化されて、蒲団を積んだ蒲団型太鼓台の誕生に至ったと考えている。
平天井型の太鼓台は、文化圏の各地に分布している。左から、今治市吉海町渦浦〝やぐら〟、愛媛県鬼北町小倉〝四つ太鼓〟、愛媛県愛南町柏〝四つ太鼓〟、宇和島市日振島〝四つ太鼓〟、宮崎県国富町〝よいまか〟、カラフルな市松模様の平天井の上に傘を飾る宮崎県延岡市島野浦島〝だんじり〟、最後2枚は豪華な刺繍入りの天幕を飾る和歌山県御坊市の〝四つ太鼓〟。格天井に布地や和紙を貼り、或いは布地を四方に垂らしている構造は、各地でよく似ている。
Ⓒ次に、平天井型と蒲団型との見過ごせない関連についても述べておきたい。蒲団型太鼓台の場合、夜になると平天井や雲板から〝蒲団を下す〟太鼓台が、現在でもかなり見られている。昼間は蒲団を積んで担がれていたものが、夜間の運行ではあたかも先祖返りのように〝平天井型太鼓台に戻る〟のである。その各地の様子を眺めてみたい。
最初の2枚は、広島県大崎下島沖友の〝櫓(やぐら)〟で、絵馬は蒲団を下した夜間のものと思われるが、天保13年(1842)の奉納。櫓は水引幕保管箱の墨書から、文政3年(1820)始まりであると思われる。次の4枚は、愛媛県愛南町深浦の〝やぐら(別称、四つ太鼓)〟で、夜には本物蒲団を下し、神輿と激しくやり合う。天井部分を〝障子〟と称している。(和歌山県御坊市周辺の四つ太鼓と同じ) 最後の3枚は、最初に紹介した沖友と同じ大崎下島の御手洗に伝わる〝櫓〟で、御手洗湊の住吉神社が勧請された文政3年(1830)頃には既に始まっていたものと思われる。御手洗では、昼用と夜用の櫓を備えている。
ⓓ太鼓台が発展してきた歴史を振り返ってみると、蒲団の有無によって、規模や装飾の面で大きな差が生まれている。そしてその分岐点は、装飾部位の増えた平天井型太鼓台にあったと言える。それまでは華奢な天井だけでもよかったが、重量・容積を増した蒲団部を安定的に積み置くためには、それ相応の強度が必要となる。特に大きな蒲団枠を何畳にも高く重ねて重量・容積共巨大化した現今の蒲団型太鼓台の発展形では、太鼓台の構造やバランス確保の為には、〝四本柱よりもやや外側〟に雲板を設け、蒲団枠を重ね置く台としての剛性の強いカタチが一般的な雲板の形状となる。蒲団部発展の当初では、本物蒲団型や鉢巻蒲団型であったため、雲板もその形状に適合するように、比較的小型・簡素なものでもよかったものと考える。やがて、蒲団部を載せる部位としての雲板は、蒲団部の発展と共に、どんどん大型化し、堅牢化を増すこととなる。同時に、夜間の運行では蒲団部を下しての運行となるため、蒲団型太鼓台の初期段階では〝平屋根型⇔蒲団型〟とを行き来しながら、徐々に大型化への梶切りをして行ったのではなかろうか。
雲板は、平らなものばかりではなかった。次回の考察⑶では、〝平らな雲板以外の雲板〟の存在を見ていきたい。そこでは、雲板の発生が〝他の山車類と、どのような関りがあったのか〟等が類推されてくるものと考えている。
(終)
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