太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

伊吹島・西部太鼓台、太鼓胴内の墨書き

2022年11月04日 | 研究

伊吹島太鼓台の来歴

瀬戸内・燧灘に浮かぶ香川県観音寺市伊吹島には3台の年代物太鼓台〝ちょうさが伝承されている。いずれも幕藩時代の天下の台所・大坂から海路によって伝えられたものである。確かな記録によれば、文化2年(1805)記載の太鼓台の蒲団枠保管箱が東部太鼓台(旧・下若)に、文化5年(1808)の太鼓台新調時からの記録「太皷寄録帳」が西部(旧・上若)に、文政6年(1823)記載の「太皷水引箱」が南部(旧・中若)に、それぞれ伝え遺されている。また島内の伝承によると、太鼓台の出来た順番は、上若・下若・中若の順であったと言う。このようにこの島の太鼓台の歴史は、今より約200年以上前に始まったことが分かっている。

また、東部(下若)の文化2年の蒲団枠保管箱の存在から、現在の東部太鼓台の登場は明らかにされたと言っても問題がなかろうと思うが、島内で語られてきた「一番は西部(上若)のちょうさ、二番は東部(下若)という確証は、今に至るまで客観的解明が為されていない。古くからの各種装飾品が伝え遺されている伊吹島なので、何とかして明らかにしたいと長年想い続けてきたところである。

西部太鼓台の張替え

そのような矢先、懇意にさせて戴いていた伊吹島在住の久保和子様(故人)から〝太鼓の張替えの際に撮影した胴内の墨書き写真〟のご提供を受けた。それによると、平成19年(2007)の張替えを含め、昭和27、8年(1952-53)と明治10年(1877)の2回の張替え記録が胴内で確認できた。更に文化5年(1808)の上若太鼓台を新調した際の記録「太皷寄録帳」の「巳ノ八月(1809文化6年)の条に、「・248匁8分 おばしや 婦とん水引 買物 / (同日) ・85匁 太皷 / (同日) ・ 200匁 同台 大嶋伊兵衛大工に拂」とあり、太鼓に関する支出が窺える。

文化5年の西部太鼓台新調と、積まれていた太鼓との関係は?

西部太鼓台は「太皷寄録帳」により、文化5年(1808)に新調されたことが判明している。そして前述のように、翌6年に〝太鼓のため〟に銀85匁を支出している。この85匁が現在に換算していくら位に相当する金額なのかによって、〝太鼓の新規購入だったのか、それとも張替えに要した費用だったのか〟が分かる。当時の銀85匁とは、一体いくら位に相当するのだろうか。当時のお金に換算することは大変難しいが、銀1匁が1,000円とも1,500円とも言われている中で、仮に最大に見積もって2,000円とすると、銀85匁は170,000円になる。この金額では大太鼓は買えないだろうと思う。台(太鼓を積み込む台で、換算額400,000円)との比較においても、太鼓は新規購入ではなく、それまで使っていたものを張替えて再利用したものだったことが理解できるのではないかと思う。

以下に、西部太鼓台の新登場から現在までの歴史を推測してみる。これまで太鼓台は3回造られている。直近が現在の太鼓台で、安政4年(1857)製とかなり古く、その前が文化5年(1808)製で、この2回の新調は「太皷寄録帳」に記録されている。今回の太鼓胴内の墨書や言い伝え及び「太皷寄録帳」の記載より推測して、文化5年以前に既に太鼓台が存在していたこととなり、伝承が正しいものであったことがほぼ間違いのないこととなった。では、伊吹島で最初に太鼓台が登場したのはいつ頃であったのだろうか。私は18世紀中頃まで遡ることができるのではないかと考えている。

(関連記事)

蒲団部構造(1)燧灘・伊吹島の「ちょうさ」‥(2020.10)

〝伊吹島・西部太鼓台の幕〟よもやま話‥(2021.3)

天保4年(1833)の伊吹島・南部太鼓台への〝見積書〟について‥(2021.4)

「積り書覚」(見積書) ‥ 安政4年伊吹島・東部(1857)‥(2021.5)

(終)


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