太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

掛声「ヨイヤ、マカセ」から、「ヨイヤラ、モテケ」へ‥観音寺太鼓台

2021年11月11日 | 掛声

観音寺祭の太鼓台、川渡りの掛声

川幅が約100mの財田川北岸に位置する香川県観音寺市・琴弾八幡宮。秋の大祭(観音寺祭)に奉納する太鼓台は、現在では必ず三架橋を通って御旅所の十王堂に入る。しかし、三架橋が岩国・錦帯橋のような三架の太鼓橋(橋の幅は恐らく2間ほどであったと思われる)であった明治18年(1885)頃までは、大潮の干潮時、財田川を斜めに横切るようにして、川渡りを行っていた。文化年間(1809)の記録に〝近年、ちょうさ太皷が登場〟と初めてうかがえることから、観音寺での太鼓台草創・発展期の約80年弱、今よりも随分と小振りな太鼓台であったとしても、その光景は、三架の太鼓橋を背景にして岸辺に人々が群集して眺める、なかなかの壮観であったことが偲ばれる。

 

三架橋の変遷。左から、江戸時代後期(最初の1枚)から明治18年までの橋・2枚、昭和10年までの橋・2枚(初期は木製欄干、後期は鉄製欄干であった)、昭和10年建造の現在の橋。橋上の太鼓台は、昭和50年代前半と現在。(太鼓台は同一地区のもので、昭和59年に造り替えられた)

ところで、太鼓台が三架橋を渡る時の独特の掛声〝ヨーイ、ヨォーイ、ヨイヤラ、モテケ〟については、各地の簡素な太鼓台を数多く実見してきた私は、以前から、この掛声に〝各地太鼓台との共通性が潜んでいる〟ことを実感していた。因みにこの掛声については、昭和51(1975)年5月、当時満80歳の明治28年(1895)生まれの記憶力抜群だった観音寺市港町在住の合田翁からの聞き取りでは、「生まれる前のことで、わしには川渡りの経験はないが、実際に川渡りを経験した古い先輩たちから、この掛声は〝太鼓台が川中を担いで歩む時の掛声〟で、〝ここの太鼓台が始めた掛声〟であると聞かされた」と、話していただいた。ただ聞取り取材した当時、同年輩のお年寄りも4人ほど同席していたが、「わしらは、川渡りのことも掛声のことも知らない」という方ばかりであった。この記憶力の違いは、自宅が太鼓台保管場所に近かった翁の、幼児期からの特別な太鼓台との緊密な関係にあったと思われる。現在、観音寺祭に9台出されている太鼓台も、明治初年頃までは恐らく3台であり、明治18年頃にはようやく5台か6台に増えている。勿論規模もかなり小さいものであった。 翁の〝ここの太鼓台が始めた掛声〟のくだりは、太鼓台が初めて登場し、川渡りが始まった時代には3台しか出ていなかったので、割り引いて考察しても、どうしても我田引水的になってしまう。いずれにせよ、この観音寺太鼓台・独特の掛声〝ヨーイ、ヨォーイ、ヨイヤラ、モテケ〟については、各地太鼓台の掛声と、どのようにつながっているのかを、客観的に考察しておく必要がある。この掛声〝ヨーイ、ヨォーイ、ヨイヤラ、モテケ〟と一緒に唄われているのは、〝雪の白雪きゃ、ノーエー〟で始まるよく知られた「農兵節」である。この〝ノーエ節・農兵節〟についても、私は観音寺以外でも聞いた記憶がある

各地太鼓台との掛声の共通性について

掛声〝ヨーイ、ヨォーイ、ヨイヤラ、モテケ〟の、先ず前半部分の〝ヨーイ、ヨォーイ〟について。この〝ヨーイ〟は、「良い、佳い」の意味からの掛声であると思う。「良い」と「佳い」との違いは、良いは全体として〝よい〟の意味があり、佳いには、その上に〝カタチや外観がよく、めでたい〟との意味が加味され、元々は「嘉い」という漢字が用いられていたようだ。各地では太鼓台に限らず、神輿・山車・だんじりなどの重量物運行時には、〝ヨイ、ヨイ〟〝ヨイヤ〟〝ヨイヤ、マカセ〟〝ヨイヤセ〟〝ヨイヤサ〟などの掛声が、時には急調子に、時には力を出し切る唱和で、愛着と寿ぐ意味を込めて広く使われている。

観音寺太鼓台の場合、規模が今よりも随分と小型であったとしても、大潮の干潮時、潮の流れが残る浅瀬や砂地や小石が広がる川床を、大勢で息を合わせて担いで歩を進めなければならなかった。各地太鼓台等の奉納物に見られる急調子の掛声から、緩やかで少し間延びしたような調子の唄うような掛声〝ヨーイ、ヨォーイ〟と転化したものと考えている。

掛声の後半部分〝ヨイヤラ、モテケ〟の意は、奉納する太鼓台を宝物の如く見立てて〝景気よく、氏神に奉納する場所(御旅所)まで持って行け〟との願いや意味が込められているものと思う。川中を歩み進むことや重量物である太鼓台を舁夫全員が協力・合力にて担ぐため、或いは背景の琴弾山の下、川と橋と太鼓台との織り成す一幅の景観を、人々の心に際立つ残影として記憶に留めるためには、悠長な前半の寿ぐ〝ヨーイ、ヨォーイ〟に続く、より具体的な後半部分、即ち奉納物である太鼓台の存在意義を大勢の唱和と力強い太鼓のリズムが不可欠であったのではなかろうか。困難とも言える川中の長い距離を、太鼓台を人々は自分たちの生きざまにに重ね合わせていたのかも知れない。担いで渡り切ること、見事に対岸へ到着することが、地域一丸全ての人々の自己発揮であると、先人たちは意識していたのかも知れない。

各地との掛声比較において、この〝ヨイヤラ、モテケ〟は、別の一面をも持ち合わせている。即ち、川渡りが始まった最初の段階から〝ヨイヤラ、モテケ〟と発せられていたのではなく、その語源は各地でも広く使われている比較的急調子の〝ヨイヤ、マカセ〟にあり、財田川の川渡りの長い時間軸に合わせ〝悠長に、唱和するように、唄う如く、ヨイヤラ、モテケ〟転化したものと考えている。川中という遮るものがない広い視界の中、重量物である太鼓台と太鼓のリズムと唱和する力強い掛声だけが、川岸からの大勢の熱い視線を浴びている、そのような光景がこの〝ヨーイ、ヨォーイ、ヨイヤラ、モテケ〟には込められてきたように思う。

その掛声が、太鼓台の呼称になっている地方が多くある。

〝チヨウサ〟という掛声が多くの地方で太鼓台を表す語として知られているように、ここで述べた〝ヨーイ、ヨォーイ、ヨイヤラ、モテケ〟に含まれる掛声が、太鼓台を指し示す語として各地に伝承している例を幾例か紹介する。

よいや」‥掛声〝ヨイヤ〟からの転化。三重県熊野市の蒲団型太鼓台。この太鼓台は蒲団部の拵え方に大きな特徴があり、蒲団型太鼓台の発展過程を追体験するには甚だ貴重な存在の太鼓台である。蒲団型太鼓台・よいやに関しては「蒲団部構造(2)紀伊半島・熊野市〝よいやを参照していただきたい。

「よいまか」‥掛声〝ヨイヤ、マカセ〟からの転化で、〝ヨイ、マカ〟と短く縮めている。宮崎県国富町の平天井型太鼓台。頑丈な構造に特徴があり、太鼓叩きの少年は四本の柱に縛り付けられ、太鼓台は荒々しい。(昭和54年7月撮影)

「よいやせ」「よいやさ」‥掛声〝ヨイヤセ或いはヨイヤサ―〟からの転化。「よいやせ」と呼ぶ愛媛県南予地方では小型・軽量の太鼓台で、主には平天井型の太鼓台を指す。同規模の蒲団型太鼓台は「四つ太鼓」や「やぐら」と呼ぶ。これに対し「よいやさ」から転化した「やっさ」は、主には姫路を中心とする播州地方の豪華な神輿屋根型太鼓台の異名となっている。播州地方の屋台に関しては、明治初年頃のものが兵庫県三日月町に伝承されているが、現在の屋台と比較すると、規模も小さく、装飾の面でも大きな開きがある。

愛媛県南予各地の「よいやせ」

播州地方の神輿屋根型太鼓台「屋台」

愛着を込めて「やっさ」と呼ぶ。2枚目の画像は、明治初年頃に姫路地方から購入したもので、大型化・豪華への発展過程が偲ばれる。絵馬は、明治14年の姫路市の神社のもので、横に並ぶ天部が丸い蒲団型との比較で、やはり当時の屋台規模が想像できる。

(終)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 講座テキスト〟の情報提供に... | トップ | 蒲団〆の幅広化について(1) »

コメントを投稿

掛声」カテゴリの最新記事