太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

講座テキスト〟の情報提供について‥⑵

2021年11月01日 | 太鼓台文化の情報

「講座テキスト〟の情報提供について‥⑴」に関連して、当日発表のプロジエクター画像を公開いたします。。

10月30日㊏に開催された「ちようさについて学ぼう」(「いいまちづくり観音寺輝き隊」:代表:大西さん)のガイド養成講座で使用したプロジェクター全画像をアップいたします。全60余コマで構成されています。PDF等に編集して連続してお見せすることができないブログ上の制約(PDFでの投稿は不可)のため、いちいちクリックを繰り返してでなければ見れないという面倒くささを、どうかご容赦ください。なお、講座の趣旨や地域性との関係で、香川県観音寺市を中心にしてストーリーを構成しておりますが、常日頃から我田引水を忌み嫌い〝太鼓台文化圏は、みんな仲間同士〟と考え、客観性や公平感を前面に打ち出している発表者の私としては、そのような排他性・我田引水は全く持ち合わせていませんので、その点をお汲みいただきご覧ください。

 

 

以下の2枚は、太鼓台の分布が、どうして東日本には無くて、西日本だけに広まっているのでしょうか」という質問がありましたので、その問いに答えるカタチでお見せしたコマです。

①各種・各形態、小型から大型までの太鼓台が各地に大量に分布している。また、現在の太鼓台の主流は蒲団型太鼓台であると言え、これは様々な太鼓台を駆逐したものでもある。

蒲団という語が、「座具を意味する語から、寝る蒲団(布団)に変化している」こと。

寝る蒲団の態様が、遠州・三河を境にして西日本と東日本では大きく異なっていたこと。西日本各地が、比較的早くから方形の上蒲団(大蒲団)を採用していたのに対し、東日本の各地では夜着(袖付き布団・掻い巻き布団)が遅くまで、上蒲団に代わって主流を占めていたこと。

④太鼓台の無い東日本にも蒲団を積み重ねた祭礼奉納物があった。しかしそれは寝る蒲団ではなく、座具としての蒲団であったと考えられること。

⑤私たちの生活様式を大きく変えた綿栽培の進展と高価な綿製品の登場で潤う人々(江戸時代中期以降の大坂の呉服商人)が、太鼓台に寝る蒲団(神様が)を取り込んで、それまでの簡素な太鼓台(の上)に採用したこと。

大蒲団と夜着との決定的違いは、大蒲団が〝作るのに簡単な方形であり、大量生産が可能であったのに対し、夜着は〝複雑なカタチをしていて、大量生産には向かなかった〟ことではないかと考える。使用する綿の量も、大蒲団では均一で大量の綿を使って利潤の効率も良く、夜着では使用する綿は大蒲団とは比べものにならない少量であった。

⑦大坂を起点として西日本だけに太鼓台(蒲団型太鼓台より以前の簡素な太鼓台を含めて)が分布しているのは、以上のような蒲団(寝具の)を受け入れる土壌の違いが間違いなく大きく影響していたものと考えている。

⑧同時に、大量の物資を運び、最新の情報をもたらす近世海上交通網、瀬戸内海を通じて西日本に門戸を開く大坂の呉服商人たちが利用しない訳がなかった。

概略的には以上の様な要因(蒲団の意味合いの変化・綿作に関する大坂商人の動き・売れる寝具としての蒲団の流行・海上交通網の発展とその利活用等)が考えられ、今日的な西日本に特化した太鼓台の分布が見られている、と私はみている。

(終)


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