太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

「積り書覚」(見積書) ‥ 安政4年伊吹島・東部(1857)

2021年05月22日 | 研究

各地の太鼓台に関する古記録(古文書・過去の諸先輩方の論文等)を、改めて私自身も学び直しながら、できるだけ分かり易く発信し、太鼓台文化の客観的解明に少しでも近づけたいと思う。書かれた年代や地域性や記録の種類などは、全くランダムに取り組んでいきたいし、できるだけ多くの古記録と向き合いたい。そのための情報提供もお寄せいただきたい。

「積り書覚」

観音寺市伊吹島東部太鼓台(当時の下若)に伝わる安政四年(1857)当時の〝見積書〟です。

記載された内容は、(A)とんぼ (B)とんぼの房 (C)水引幕 (D)水引幕の絞り房に関する見積書となっており、(F)安政四丁巳(ひのと・み=安政4年1857)八月に、大坂の小橋屋(おばしや・平井呉服店)から出されている。八月とあることから、祭りが終わった後に古くなったこれらの飾りを買い替えようとしたのかも知れない。以下、項目別に記載内容を精査していく。なお、当時のお金を現在の金額に間違いなく換算することはなかなか難しい。〝米価・人件費・個々の単品商品の値段〟等のそれぞれを換算基準にすると、かなりの幅で換算金額が異なってくる。従って本ブログでは、少し高いと思われるが分かり易い〝銀1匁≒2,000円〟(少し高めに換算しています)での換算額を採用している。

(A)黒天鵞絨 丸棹(まるさお)  両とんぼ 四筋

とんぼ四筋は黒のビロード地で作られている。そのカタチは当然ながら、丸い竿(棹)状になっていて、その中に非常に軽い燈心(灯火を灯すためのイグサの糸状髄)を大量に詰めている。以前、東部太鼓台の太鼓蔵を見学した際に、使われなくなった一世代前のとんぼが片隅に放置されていた。とんぼの破れた箇所から、件の燈心を確認している。中身として各地で見られる〝綿・おがくず・藁・もみ殻〟などではなかつた。現在では全くと言ってよいほど需要の無くなってしまった燈心ではあるが、燃料照明の時代にはごく一般的な商品であったと思われる。概算価格が知りたかったので、後日近くの仏具店に行って購入したことがある。素麺一把の五分の一か六分の一くらいの少量で500円支払い、燈心が大変高価であったことを記憶している。現在の諸事情とは比べものにならないとは思うが、四本のとんぼ全てに燈心を詰めるとしたら、どれだけ多くの量が要るのだろうか。(画像は、朽ちかかった東部太鼓台とんぼと中身の燈心)

(B)伊達房 八つ

伊達房はとんぼの先端に飾る房のことで、とんぼ一カ所に2本ずつ、計4カ所で8本飾る。そのまま〝八つ房〟とも呼んでいる。太鼓台の大きな目立つ飾り房としては、この八つ房の他に、四本柱の外側に飾る四本の大房(四つ房)がある。四つ房を用いずに、この部分に昼提灯を飾る地方もある。画像は東部太鼓台の伊達房(八つ房)と丈の短い四つ房。(伊吹島では、四本柱以上が上下する〝せり上げ〟機構を各々の太鼓台に備えているが、島の道がほとんど坂道であることなどを理由に、担ぐ際のバランス・安定感確保のため、せり上げ機構を使うことはなく、四本柱や蒲団部は、低い位置のまま運行されている。四つ房の丈の短いのは、このような理由から四本柱が低く固定されているためである)

(C)濱縮緬御水引幕 壱張

幕の仕様では、浅黄色(薄い水色)の染め幕と、割高な本紫染めを提案している。八つの定紋は金糸刺繍なのであろうか。19世紀半ばのこの時代では、水引幕に今日的な装飾刺繍は施されていなかったのだろうか。伊吹島の3太鼓台のうち、南部(旧・中若)太鼓台には、文政6年(1823)と安政5年(1858)の〝”水引幕保管箱〟が2世代にわたり現存している。前者は、箱の容積が小さく深さも浅い木箱であった。後者は、前者の箱蓋と比較するとかなり大きくなっていることが想像できる。下の画像が、道具箱の比較画像である。

前者の箱書きには〝干時文政六癸未(1823、みずのと・ひつじ)八月吉辰日 太皷水引箱 中ノ當若者組〟とあり、箱蓋の裏には46名の名前が記されている。この箱は小さくて、刺繍が施された厚手の幕などは到底入らない。後者の箱書きは表面が汚れて確認しずらいが、〝安政五年(1858) 午八月吉日 太皷水引箱〟と書かれている。最後の〝覚〟(領収確認書)の記載の中に、総縫仕立ての猩々緋水引幕と生地長持(太皷水引箱か)等が確認できることから、南部太鼓台の水引幕においては以下のことが言えるのではないか。《ⓐ文政6年に拵えた水引幕は、厚みのない〝染物幕〟であった。それより約35年後の安政5年に拵えた水引幕は〝総刺繍入りの高価な水引幕〟に変化・発展している。ⓑ銀1匁≒2,000円として換算すると、安政5年の水引幕は、約120万円程度の高額となる》

同じ島内の東部太鼓台では、南部太鼓台(旧・中若)や西部太鼓台(旧・上若)と切磋琢磨しながら太鼓台間の地域競争に力を注いでいたものと考えられる。安政5年〝覚〟の南部太鼓台水引幕の豪華への発展が大きな刺激となり、上記の水引幕箱(同じ安政5年)の時代に、ボリュームの増した豪華刺繍入りの水引幕に発展したものと思われる。文政6年と安政5年の二様の水引幕保管箱が現存していたおかげで、伊吹島太鼓台の水引幕が、いつの時代に、どのようなカタチからどう変化・発展したかが理解できるのではないでしょうか。

(D)絞り房

水引幕の四面中央で幕を絞り上げるようにして房を飾る、そのような房を〝絞り房〟と呼んでいる。その房を見積書では〝黒大白金糸入寄返〟と形容しているが、これをどう読むのだろうか。参考に添付した写真は伊吹島・南部太鼓台の蒲団四隅の〝角房〟であるが、黒糸と白糸を半分ずつ(これを1個の房の〝大〟と形容できないこともない)にし、よく見ると金糸も少し入れている。また房の末端部分は、縒(よ)りをかけて丈夫に作っている。房を飾る部位が、水引幕と蒲団部との違いはあるが、恐らくこのような房を水引幕の絞り房として提案計上したのだと思う。

(終)


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