能地(のうじ)について
河岡武春氏作成(『家船民俗資料緊急調査報告書』1970)広島県教育委員会・三原市教育委員会)
広島県三原市幸崎町能地は、瀬戸内海のほぼ中央部の山陽路に位置する。〝能地〟の認知度は民俗学上の「家船」の親村ということに尽きると思う。家船というのは、海外には今もなお存在する「住居兼生業形態」であるが、かっての日本の場合には瀬戸内海と九州の一部に見られた。その特徴は、動力のない時代から広大な海を自由に行き来し、行った先々で小規模の漁業を営み、取った漁獲物を売り或いは食料等と物々交換し、長期の間、船を住み家としていた〝漂泊の漁民〟ということになる。瀬戸内の家船で生きる人々は、進出地においてやがては数多くの寄留村・枝村を成す(「家船」の研究史、山本敏子2016.2『駒澤大学教育学論集第32号』所収、特に119㌻部分参照)のであるが、家族とともに小船に乗り、仲間の船と小さな船団を組み、少なくとも太平洋戦争直後まで瀬戸内海の東西へ進出した出漁形態であった。船は住みかであり同時に生活の糧を得る大切な道具でもあった。昭和30年頃に、私もそのような数隻の船団を郷里・観音寺市の船溜まりで見たことがある。漁船よりは少し大きな船であったと記憶している。いずれにせよ、〝他所者〟であった家船の人々の生業の厳しさは様々な差別との闘いだけにとどまらず、〝板子一枚下は地獄〟といわれるように常に生死と隣り合わせであった。便利に慣れている私たち陸の生活者には想像できない苦労が、ついこの間まで長く続いた。そのような家船の親村・能地に、瀬戸内海の代表的な祭礼文化である「太鼓台・ふとんだんじり」が伝えられている。[※現代でも呉市の豊島(旧・豊田郡豊浜町)では家船が残っていて、その様子がレポートされた映像がある。かっての家船とは異なり、多少近代的な〝家船〟ではあるが‥]
能地の蒲団型太鼓台・ふとんだんじりは、四丁目ふとんだんじり(旧・大西)が最初であると伝えられている。呉市豊町大長(旧・豊田郡豊町)では2台の「櫓」(やぐら=蒲団型太鼓台)による祭礼時の喧嘩が絶えず、地域の融和を図るため、うち1台が能地へ売却されたという。そのことから、現在の能地ふとんだんじりは、愛媛県「新居浜太鼓台の古形である」ことには間違いない。従って、能地ふとんだんじりの始期そのものを、大長から購入してきた明治中・後期に置き、それが能地における「だんじりの始まり」と解釈されて独り歩きしているのである。
実はそうではなく、能地には「ふとんだんじり以前のだんじり(太鼓台)文化があった」ということを、ぜひ理解しておく必要がある。ただ本稿では、明治初期までに出来たと思われる新居浜型太鼓台、即ち能地の四丁目ふとんだんじりを通して、当時の愛媛県東予地方や香川県西讃地方の太鼓台の蒲団部が〝どのような形状をしていたか〟を眺めておきたい。そして、能地ふとんだんじり以前の「能地のだんじり」の歴史解明については、次稿の「蒲団部構造(6-②)能地・資料集」において、各種資料に基づき明らかにしたい。
四丁目ふとんだんじりの蒲団部構造
幸崎町能地春祭のパンフレット(見開き中程の「天保から明治にかけての頃‥」の部分には若干の疑問があり、次稿で明らかにしたい)
ふとんだんじり同士の喧嘩。右は四丁目ふとんだんじり(旧・大西、大崎下島・大長=新居浜型太鼓台の古形)の道具箱の蓋(赤外線写真)で、鋭利な釘などで削られていて墨書きが判明しない。
四丁目ふとんだんじりの蒲団枠。(右は最上段の蒲団枠)外側は竹で作られているが、同時代(幕末から明治初期)の四国・瀬戸内の太鼓台の竹籠製・蒲団枠よりも簡素化されている。伝えられた蒲団枠が壊れたため、新しく簡素に作りなおしたのだろうか。本来、同時代の同じ地方の太鼓台であれば、下写真のような籠編みの蒲団枠になっていたと思われるが‥。
左から、2枚は能地と〝兄弟太鼓台〟の大長・櫓(明治初期頃)。 次の2枚は天保5年(1858)製と思われる観音寺市大野原町の旧・田野々太鼓台の唐木と蒲団部(元は同市豊浜町・関谷太鼓台)。 最後は三豊市詫間町・箱浦屋台(太鼓台)の蒲団部。能地ふとんだんじりと同時代の、愛媛県東予地方から香川県西讃地方の蒲団部は、写真のように蒲団部の外縁部分が竹の網代編みを丸めた構造となっている。なお、昭和52年当時の能地ふとんだんじりでは、三丁目だけが5畳の蒲団部を積み、他3町は7畳を積むカタチであった。
(終)
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