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特攻隊シリーズ3。

2020-12-28 22:19:07 | 日記

特攻隊シリーズ1,2が何故かアクセス多いので、急にシリーズ3を取り急ぎ書きます

理論家で無いのは承知済みだと思うので、駄文乱文長文失礼いたします。

本日は知覧特攻平和会館で書きます、私は旅行社時代の旧館時期を含めて三回訪れて居ます、アッチの方が専門と読者の方はお思いでしょうが、内心は結構真面目です。広島長崎に数度客を案内したのは自負で他の社員には風変りに見られていたのです、何しろ慰安旅行ですから不思議ですよね、しかし客はそれなりに悲惨さを知り納得してました。

読者の方で知覧を訪れた人も多いと思います、遺書や写真見て涙流したでしょう私も一回目では泣きました

だがチョット待って下さいその涙誰に向けて流したのですか。特攻隊員本人父母兄弟国民?それとも馬鹿な軍隊への怒りかよく思考整理して下さい。

私も泣いて帰った後に心の整理をしました、でも二回目に訪れた時謎が溶けたのです

あそこは似非特攻平和会館です、最初に特攻の母と呼ばれた浜野トメさんが慰霊してた頃は純真で正義溢れる所でしたが、突然変わったのです。(特攻平和観音奉賛会)と言う悪徳会が観音様を立てたからです。

正体は菅原中将を筆頭にする元アホ将軍達の特攻慰霊会です、説明しなくても理解出来ますよね。

特攻隊員には強制的に志願させ(君達の後には俺も逝く)と嘘を言い戦後に出世した馬鹿連中です

尤も最高指揮者が責任逃 れで必死に生き。(自らの責任を取らず文学上の問題)で逃げ切り1989年迄生きたのだから現在のアホと同様です、それともアホが真似してるのかな。矢張り悪には違う災脳が有るのだろう

知覧に戻ります、悪徳会の観音様の建立には常識教養が有れば反対されるのが当然だ勿論猛反対で溢れた。しかし現在過去同様だが力の有る者が勝つ、それで会館の内容に変化が起きたと感じるが1955年の事だ私の思い込みだと良いと願う。

その後知覧は過疎地に成りかけた、高木敏郎が元従軍記者で現在作家だが(特攻の母)で島浜トメさんを書きたがったが、観音様の事情は不愉快に思ったらしいが悔しくも書いた。ヒットして一躍知覧が有名になった単なる観光地は失礼だが、現在はそう思う

先ずはお涙頂戴で受ける遺書を並べてるが、特攻隊の時代背景や教育勅語、軍事勅諭が無いのだ勿論将軍や参謀の責任問題も無い。太平洋戦争が侵略戦争だった意識は毛頭無いのだろう

ネトウヨネトサポ如く、植民地からの解放の様に感じる。南方で餓死した戦死者の写真を飾りたい気分だ

この会館を世界の記憶遺産に申請したそうだが、役人の頭が狂っているのだろう。プロパガンダに感じる

もっと書きたいですが、文字数が限度です、遺書の真実や他書け無くパート4で書きます

開聞岳を目標に飛び、超えたら海のみだ(千死零生)だけが待ってるのは悲しい歴史だ、正しい史実を残そう。

下記に特攻隊の真実を書いたアドレス掲載します、長文ですが面白いので是非読んで下さい。

 

https://osh-management.com/social-problem/information/chiran-suicide-attack/index4.html

 

 


電気屋の昭和世相と言葉。

2020-12-28 02:01:22 | 日記

平成ベイビーに昭和は遠い昔だろう、死語シリーズ思い出しまた書きます。

たまひよonlinen様の引用入りますが我が説が多くです、昭和と聞いて先ずは何を思うか読者の方に直接聞きたいです。先ずはギャグから入る、伴順三郎がお笑いで(アジャパー)が俺の最初の記憶だ。失敗した時に多分照れ隠しに使うのだが今でも偶に口ずさむ、当時家庭にテレビは無く街頭テレビが大持てで群衆と言う程人が集まった。一番の人気がプロレスの力道山だった、その後徐々に普及したが(夕日丘三丁目)の如く近所の人が大勢視に集まった。

当時は近所付き合いが深く人情味が有った、勿論持ち主は鼻高々で喜んで見せてくれた昭和30年代の頃だ

小学生時代に三種の神器はテレビ、冷蔵庫、洗濯機が呼ばれた。クラスの友人が家で購入すると大自慢だった。

当時の金額で六万円以上した、親父の給料が多分一万円代なので子沢山の我が家では遅かった。従兄が中日の杉下の親戚なので常に野球中継は中日戦なので何故か中日ファンに成り、6年の修学旅行にはCDの野球帽を特注で買い被った。今でもクラス会で会うと不思議な性格と言われる。杉下とはフォークボールの発明者です

後に電気屋に成り知ったが、朝屋根を見てアンテナが無い家にテレビを貸すと売れたそうだ。丁稚小僧が5千円以下で雇えた時代だ店主は大儲けで毎日キャバレー通いだった、尤もキャバレーが死語だろう

その時しっかり貯め込んだ人は量販店を作り、遊び惚けた人は潰れた

平成ベイビーはテレビでチャンネルを回せとは不思議に感じるだろう、昔のチャンネルは回転式なので回せと言うリモコン等無く直接テレビ迄行ってチャンネルを回すのだ、ザッピング等夢の夢だった。

またアナログ放送時代はチャンネルも異なった、朝日テレビは昔教育テレビと呼ばれ10Chだったし、テレビ東京は12Chだった。偶に昔のチャンネルで呼び倅に文句を言われる。

ビデオもそうだ、発売当初は20万円以上したが最後は1万円台まで下がった、量販店はお持ち帰りだが街の電気屋は取付工事から使用方法まで説明する手間を考慮すると実質赤字になった。その後CD,DVD,ブルーレイと変わったが今でも録画を頼む時にビデオを取ってと頼む癖は抜け無い、不思議だ。

今思い出した、昔は白黒の14インチだったがブラウン管の前面にプラスチックで出来たレンズの様な物を付けて大きく見せたし、電気を消し暗くして視た記憶が有る。カラーテレビは昭和39年のオリンピックで急速に普及して、家庭に1台から個人に1台そして一部屋に1台と変わった。

変わったテレビで、眼鏡を使用して視る立体テレビも発売されたが売れなかった、4K8Kテレビは量販店が多いに売ったがチューナーが別売りで単体では視る事が出来ず公取委から必ず説明して売る様に注意勧告された

現在大型テレビはほぼ4K8Kだが未だチューナー別売りが多い

テレビの歴史は結構面白い、家具調のテレビや色々の形のテレビが発売されたが物価は卵やバナナと共に優等生だ、ビデオはもう無いが液晶テレビ同様に新発売の時期から一桁下がった、儲からないので発売停止のメーカーが何社も有る。

今回はテレビの昭和史になったが続編は昭和の死語で書きます。明治百年の思い出有るが昭和百年も直ぐに来るそれまでは頑張って生きよう