この軍歌で320万人が亡くなった事は悲しいが、俺はこの曲を聴くと虚しさで心が痛む。
準国歌と言われた時期も有る、半藤利一が歌詞を変えて国家にしろと語った事も事実だ。
失礼承知で嘲笑を込めて書きます、脚本家で向井田邦子さんのコメントが大半を占めますが我が感想も入ります。
子供時代に歌詞の意味が理解出来ずにうろ覚えで歌った記憶有るでしょう、色々な歌が有るが今思い出せるのは
笑話30年頃に流行った春日八郎の(お富さん)です、不埒な歌として学校で唄う事を禁止されていた。
粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の洗い髪~~。を俺は生きた黒兵衛 神輿のマツに 渾名姿の 笑い髪~~。
お笑いで粋な変詞でしょう。
海ゆかばの軍歌を調べて居たら、向井田さんのコメントに出会った。単なる脚本家(七人の孫、時間ですよ他)と思って居たら芸能界(?)で赤旗を読んで居る事を宣言していた、また偶然だが転勤族の娘で19歳上に成るが宇都宮市二条町(旧名)で実家の近所だったらしい、格上で比べるのは失礼だがジョーク駄洒落猥褻で思考法が若干似てる様に感じ親しみが湧き、戦記本を何冊か書いて居るので読んで見ようと思って居る。
下記に向井田邦子のコメントを書きます。
海 行 か ば
海行かば 水漬みづく屍かばね
山行かば 草生むす屍
大君の辺へにこそ死なめ
かへりみはせじ
「海行かば」は 私にとって哀しい歌なのです。
戦争の時代、ラヂオから「海行かば」が流れて来ると、
「あ、アメリカにやられてる。兵隊さんが大勢戦死した」
と思うと同時に、それが 自分にもジワジワ近づいてくる薄気味悪さ
恐ろしさが伝わって来るのでした。
戦争の末期、サイパン島やテニアン島、アッツ島などが相次いで玉砕
(陥落)したニュースをNHKラヂオが報じるとき、前奏曲として
「海行かば」を流していたことから、この曲が⋄負け戦いくさ、悲報、戦死、
鎮魂歌などと結び付いたようです。
子供のときから、そんな刷り込みをされていた私は「海行かば」は、
荘重、陰鬱ながら厳粛なる鎮魂歌だと思い込んでいました。
この「海行かば」の歌詞は千数百年前に、大伴家持が詠んだ長歌が
原典ですが、歌詞の意味はどう考えても鎮魂歌ではありません。
「陸 海軍の兵士は 例え戦場に屍しかばねを曝したとて、天皇の側かたわらで、
心を寄せて戦死するのである。決して 後悔はしないのだ」
という 兵士の忠誠心や覚悟、戦意の昂揚を狙った歌なのでしょう。
道理で、「海行かば」は、伴奏を付けるコード(和音)でいえば
「長調メジャー」の曲です。
私の印象ですと、長調メジャーの曲は⋄短調マイナーの曲に比べると明るい雰囲気の
曲が多いのですが⋄「海行かば」や、同じ長調メジャーの「君が代」のように、
ゆったりと然るべく演奏することで荘重な雰囲気を醸し出し、戦意の
高揚にも役立ったのでしょう。
「海行かば」は、靖国神社的な事情でもあってか、戦時中神聖視され、
「君が代」に次ぐ「準国歌」であると位置づけられていたという記述を
ネットで見ましたが「海ゆかば」が、準国歌だなんて私は聞いたこと
ありません。
*
かつて忌野いまわの清志郎さんが、ロック調にアレンジした「君が代」を歌って
モメたことがあります。
ことほど左様に「君が代」については色んなお考えや御意見があるよう
ですが、知事や市長、教育長などが、懲罰や異動をチラつかせて国歌を
無理に歌わせるのも何だかねえ…。
天皇陛下も⋄かつて園遊会の席で、
「強制は⋄よくありませんネ」
…と⋄おっしゃったではありませんか。
政治家 諸君は天皇陛下のご意向に心を寄せて頂きたいですね。
*
歌が大好きな私は、暇さえあれば口笛を吹き、鼻歌を歌うタイプ
ですから、戦時中に子供が重労働を強いられていた時代、頭の中で
好きな歌を 何度も何度も繰り返して苦痛を和らげていました。
倉本聰さんも同じようなことを書いています。
ところで、向田邦子さんの随筆集の中に「夜中の薔薇」(正しくは
野中の薔薇)という本と、もう一冊「眠る盃」(めぐる盃)という
何れも、歌詞の勘違いをタイトルに使った作品が、2冊ありました。
向田さんも⋄歌の文句を間違ったまま⋄歌っていたと知って、更なる
向田ファンになったのは、私も「御同様」だったからです。
例えば、1942年(昭和17年)、「進め一億火の玉だ」という戦時歌謡が
あったのですが、その二番の歌詞に、こんな箇所がありました
♪
靖国神社の御前おんまえに
柏手かしわで打って 額ぬかづけば
親子兄弟 夫おっと 等らが…
この「額ぬかづけば」のことを私は「糠漬ぬかづけは」だと解釈し夫等が」は、
「おッ虎が」と思っていたのです。
ちょっと考えれば、
「これはおかしいぞ」
と思いそうなものですが、私は気にせず深くも考えず意味不明の歌を
口ずさんでいました。
日本が戦争に敗け、私が中学生になった頃、初めて間違いに気づいた
のです。
*
「進め一億⋄火の玉だ」の歌で、「一億総決起」じょうたのまま戦争に
突入して間もなく、「若い血潮の予科練の」に始まる「若鷲の歌」が
大ヒットしました。
漢字もロクすっぽ⋄読めない年齢だった私でも、機嫌よく歌っていた
のですが、この歌の4番の歌詞の中に…、
♪
~見事轟沈した敵艦を
母へ写真で 送りたい
というくだりがあったのですが、アホな私は、
「母へ 写真で 送りたい」
「歯⋄生え 写真で送りたい」
だと思っていました。
さすがに変だと気付いて、たまたまウチへ遊びに来ていた⋄お隣の
槇まき君に、
「ねぇ槇君、ははえ写真…ってどういうことなの?」
と訊ねたところ、槇君は⋄振り向きもせず、
「そりゃ、お母さんへ写真…ってことだろ」
と教えてくれたので、大いに納得したことでした。
ところが、この会話を、傍で母が聞いていたのです。
「博章は何とバカなことを聞いてるの?⋄情けないわ」
あとあとまでョ代ボロクソに言われ続けました。
*
1967年(昭和42年)、ウチの娘が小学校に入って間もなく、
「お父さん。この『チョニヤチョニサ』って何のこと?」
と聞きに来ました。
娘の手許に目をやると、音楽の教科書を開いていて、冒頭のページに
「君が代」の歌詞と音符が載っています。
まさか「君が代」の歌詞に、「ちょにやちょにさ」はないだろうと、
よく見たら…ナルホド判りました。
「千代に八千代にさ」までの部分を⋄カタカナで書くと、
「チ千ョ代ニにヤ八チ千ョ代ニにサさ」…と、読めるではありませんか。
このように⋄歌の文句を間違えて読むのは、歌詞に無頓着な私の
DNAが娘にちゃんと伝わっている証拠なのでしょう。
*
「君が代」は⋄耳で聞いただけだと、解りにくい歌です。
「きイみイがアア⋄よオわア、ちイよオ⋄にイイ」
…こういう歌い方ですから、私も、字が読めない頃は歌詞の意味が
サッパリ解りませんでした。
ですから「巌となりて」を「岩いわ⋄音おと⋄鳴りて」だと信じて、
ずっと⋄そう歌っていました。
お恥ずかしいことですが、20歳を過ぎてからハッと
気付いたのです。
*
「海行かば」でも私は勘違いしていました。
幼いころ、「草生むす屍かばね」のことを「臭くさむ⋄スカ⋄バネ」…即ち、
スカ(=的外れ)のバネが、臭い匂いを発する⋄という意味だと
信じていたのです。
「臭む」なんていう日本語が⋄ありますかいな。
…なのに「臭くする」ことを「臭む」と言うに違いないと
思い込んでいました。
*
「係り結び」は小学校低学年には⋄どだい無理です。
「大君の辺へにこそ死なめ」とか、卒業式の「今こそ別れめ」…、
私なんか「今こそ分かれ目」だと思っていましたもの。
戦時中に私が行っていた千駄ヶ谷⋄第二小学校に「曾子そし」君という、
珍しい苗字の男の子が⋄転校してきました。
家が⋄大衆食堂でしたから、お母さんも忙しかったのでしょう。
半ズボンのお尻が大きく鉤裂かぎざきに破れたまま⋄登校してきたことが
ありました。
パンツを履いてなかったのか、裂け目からお尻が見えます。
そんなことがあったので「海行かば」の歌詞の中の「辺にこそ死なめ」
という箇所が私の耳には、
「屁へ⋄2に個こ、曽子そし⋄な舐なめ」
と聞こえたりしました。
「海行かば」を聞いて、私の脳裏に浮かぶのは、兵士の胸に抱かれた
戦死者の遺骨と同時に、ズボン裂け目から見えた曾子君の白いお尻…、
この歌を巡る私の思い出は「尻滅裂」なのです。
*
「海行かば」の歌詞に関してこんな話を耳にしたことがありました。
むかし、徳島県⋄板野郡にあった⋄さる国民学校でのお話です。
戦時中の国民学校では、何かというと宮城きゅうじょう(皇居)の遥拝ようはいだとか、
校長先生の読む教育勅語を黙祷姿勢で拝聴するとか、君が代の斉唱、
紀元節(建国記念日)の歌から天長節(天皇誕生日)の歌、明治節
(明治天皇の誕生日)の歌なども斉唱して、皇室を崇あがめていました。
戦況が不利になってきて⋄相次ぐ玉砕の報に接したその国民学校では、
死者を悼もうと全校生徒を集め、「海行かば」を、斉唱することに
なったのです。
ところが運の悪いことにこの学校には、顏がカバとそっくりの怖い
先生がいて、生徒たちは彼を「カバ」と呼んで恐れていました。
お察し通り「海行かば」の歌詞には「カバ」が四匹も⋄出てきます。
「♪⋄海行カバ⋄水漬くカバ⋄ね 山行カバ⋄草生すカバ⋄ね~~」
生徒達は「カバ」の所だけ声を大にして⋄日頃の鬱憤を晴らすのでした。
これを「晴らすメント」と言うのだそうで…。
(徳島エコノ六―ジャーナルhttp://www.jctv.ne.jp/ecoja/ 16年5月号)