そして、また戻ってね。<m(__)m>
にほんブログ村
2015年12月26日
前回 鎌倉市東慶寺に出光佐三氏の墓参した記事を書いたが、
東慶寺は、やはり相当な寺格であった。
事前に用意したガイドを現地であらためて紐解くに、
当墓苑に眠っている人たちの一人一人が尋常ではないことに
改めて気が付く番長。
学者、小説家、歌人、画家、実業家、スポーツ選手・・・
ものすごい面々である。
これはぜひ、訪ねるべきと思い、オオトリに出光佐三氏の墓参を残し、
10人程の著名人の墓前にたたずみ、ご冥福をお祈りした次第である。
そんな中、ガイドに「大松博文」の名前を見つけた。
「大松(だいまつ)?」 もしや・・・・と思い、そのお墓を探したが、
勘は当たったようだ。一目してまぎれもなく、本人であると確信した。
お墓のてっぺんに石製のバレーボールが乗っかっていたのである。
女子バレー 鬼の大松 魔女を成す
バレーボールが乗っかったお墓は、さすがに見たことがない。
墓苑の中腹から L字に左折した一番奥にそのお墓があったが、
東京オリンピック 女子バレーボールチームを 金メダルに導いた
名監督 「鬼の大松」大松博文 まさにご本人のお墓であった。
番長は 墓前にたたずみ、故人のご冥福を祈った。
大阪府南部 大日本紡績 貝塚工場。
通称「日紡貝塚」女子バレーボールチームはとにかく強かった。
1959年11月の朝日生命戦を皮切りに、
1966年6月の日立武蔵戦にいたるまで、なんと258連勝 !!
国内外の全試合で、7年近くただの1敗もしなかったのである。
50年を経て 誰も破れない、国内女子スポーツにおける
単独チームでの、最多連勝記録である。
時は1961年 日紡貝塚チームはヨーロッパ遠征で22連勝を果たす。
あまりの強さに、やっかみ半分にヨーロッパのマスコミがつけたのが
「東洋の魔女」の異名だったのである。
そう、東京オリンピック以前に、彼女らはすでに「魔女」だった。
ヨーロッパの旧ソ連、旧チェコスロバキア、ポーランド等 の選手は
日本人選手より身長、体重、手足の長さといった
こと体格面では圧倒的に優位であった。
むろん最高到達点はそうとう差があったに相違ない。
当初は「小柄な日本人に負けるはずがない」と思っただろう。
ところが、ふたを開ければほぼ全試合において
セットカウント3-0か3-1の「日紡貝塚」の圧勝であった。
遠征前に大松監督は考えた。
「大女相手にスパイクの打ち合いではとてもかなわない。
守り勝つしか方法はない!」と、
相手スパイクを回転レシーブで徹底的に拾いまくり、
スキを突いて時間差攻撃で翻弄する作戦が功を奏したのである。
さも弁慶と牛若丸みたいだったであろう。
「日紡貝塚」の圧倒的な強さの前に
対戦チームは ただひれ伏すしかなかったのである。
そして、無敵のまま東京オリンピックへと快進撃は続く。
実は 強さの陰には 現代ではとても考えられない
とんでもない猛練習があった。
元選手が こう振り返る。
「午前中に工場で仕事して、午後1時から体育館の掃除とネット張り。
遅いときは午前2時ごろまで練習。
猛練習に次ぐ猛練習。年に1,2日しか休まなかった」 と、
さらに、元選手がこう続ける。
「レシーブ練習では、大松監督が容赦なくボールをたたきつけ、
選手はあざや傷だらけになって 体育館の床に飛び込んだ。
そこから、世界のどのチームもできない
得意技回転レシーブが生まれた」と、
回転レシーブの練習風景
1964年 ほぼ日紡貝塚の単独チームと言ってよい
全日本女子バレーボールチームは
鬼の大松監督のもと、東京オリンピックの晴れの舞台で
旧ソ連を破り 見事 金メダルを獲得した。
だが、金メダルの陰に隠れ 表には出てこないが、
犠牲にする部分も大きかっただろう?
と、番長は推測する。
20歳前後の女性が、本来人生で一番楽しいであろう年頃なのに、
おいしいものが食べたい。かわいい服を着たい。
映画を見に行きたい。恋だってしてみたい・・・。
そう思ってもおかしくは無いだろう。だが、彼女らはそうしなかった。
ではいったい何のために、すべてを犠牲にしてバレーボールに打ち込んだのか?
自分のため?いや違う。会社のため?これも違う。
ならば何のためか? 彼女らがすべてを犠牲にしたのは・・・・
答えは明白である。
すべては「お国のため、日の丸のため」だったからである。
彼らの残した「金メダル」は、当時まだ戦後の色濃い日本社会に
勇気と希望を与えた。
50年以上経過した今でも、その栄光には 一片の陰りすらない。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
書道 ブログランキングへ