父を早く亡くした私は昭和40年,母の代わりに京都に2回
参りました。弟の受験のため、そして合格発表の手続き、
下宿の世話です。その頃京都には同級生で幼馴染の
Kさんがいましたので良くお世話をしてくれました。私も
大学4年生でしたので最後の思い出に弟の手続きが終わり
鈍行夜行列車で山陰回りで帰ることにいたしました。
鳥取にまず下車して朝明けると鳥取砂丘まで行きました。
その時見知らぬ方が人形峠経由で岡山に
連れて行ってあげるよと言われ、さすがに??ついて行き
ませんでした。それから松江で降りているようですがその時
何処に回ったか思い出せないのです。切符の値段を
見ると840円と書いてあるのですが、昭和40年頃は学割:840円で
【京都→宇部】まで帰れたのでしょうか?価値観は……
切符は大事になおしております!
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小倉から宇部まで
ヒッチハイクで帰り母から叱られたことがあります。その若い
いろいろな思い出を持っている娘は来年は古希?そして秋には
古希の同窓会が宇部で企画されています。【高校の同窓会】
春にはいろいろな思い出がよみがえってきます
防衛大臣にしてはあまりにもお粗末で……
ついつい誰かの力が大きくて外務大臣<?>と
書いてしまいます。
ふと思いだして訂正??
恥ずかしいけれどそのくらい存在感がない?
来週は問責決議案も出そうだし…
やはり防衛大臣がしっかりしないと外国から
バカにされますね?
さ~~またこれからどんなになるのでしょうか?
人形峠 一度行ってみたいですね。ウラン鉱脈が…話題になりましたね。
が出来るまでは 東京までは車中泊でしたね。
市役所の給料が1万円あるかなしかでしたよ
その頃、大牟田~門司乗り換え~鳥取(朝到着)そして夕方発~京都~大阪~伊勢神宮の旅を 女三人でしたことを 思い出して 懐かしくなりました
kimiko様は市役所勤務でしたの?
ご主人様?
私は北九州大学に行っていたころ、だぶって
弟が京都大学に入りました。入学と同時に
父親が亡くなりましたので大学を辞めようかと
思ったのですが、卒業後アメリカの会社と宇部興産の合弁会社に入社したとき、短大しか雇わない時代で給料が12000円でした。ただし大学の月謝は年間9000円でした。2食付きで下宿費が6000円でしたよ。昔が良かったのか、今が良かった??
暮らしにくい世の中になりましたね。
女の一人旅は危ない時代です
大切に保存して下さい。
ヒッチハイクなんて、大胆なお嬢さんだったん
ですね
決める我儘娘です。
両親が困っていましたが、二女は
ほったらかしです……
それが良かったかどうか??
自分で物事を決断する性格です