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ラオスの小さい村に小学校を建てる(2015年) その5

2020-07-05 17:24:07 | 社会貢献
ラオス視察旅行の帰路、5校ほどあった候補の中から、比較的に幹線道路に近くパクセー空港からも近い位置にあるノンコーソン小学校の援助をすることに決めAEFAに連絡した。
年内に着工1年以内に完成とのことであった。
以下は他校での画像だが、地元住民や両親の学校建設参加の様子を見てみましょう。
学校建設のための敷地整備

大工さんの寝泊まり用の小屋を建てる
  
敷地整備 村民総出です。

グラウンド整備
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ラオスの小さい村に小学校を建てる(2016年) その6 開校式

2020-07-05 12:03:20 | 社会貢献
2016年8月AEFAから小学校はほぼ出来上がったから、乾季に入る10~11月ころ開校式に参加できるかと問い合わせが来た。
もちろんOKです。
今回も11月初めに8日ほど休みを取って参加する予定を建てました。
ルアンパバーン、ビエンチャンの観光も兼ねるプランを立てました。
開校式のみ取り上げました。私たちが主役となったため、あまり良い画像はありません。現地NPO法人の方にカメラは任せました。

生徒を代表しての挨拶(おそらく感謝の言葉かと思われる)

この会場の建物は旧校舎を移築したものですね どうやって移動したのでしょう?村民総出で人力で移動した例がありました。きっとそうなんでしょう。

小学生(ラオスでは初等教育5年)と両親や村人たち

この後私も挨拶(日本語を話す人はいないので、英語でお祝いし、それを現地NPOの方がラオス語に訳します)

この小学校はだれが建てたのかなー? 
子供たちは私を指さします。
違いますよー、君たちの後ろにいるご両親や村の人たちみんなで建ててくださったんだよー だからご両親に感謝しなさいよ!   てなことを

子供たちはラオ族の踊りを踊ってくれました。


少し高学年の生徒の踊り 正装するときのバービヤンを付けています。

最後にテープカット

この後食事と儀礼「バーシー」へと続きます。
こんな食事ですが子供達にはたいそうなごちそうなのだそうです。材料費はこちら持ちですが、村の人たちが料理を担当しました。

バーシー
パークワンと呼ばれるお膳です。
竹ひごにたくさんの木綿の糸が巻いてあります。
祈祷師による祝詞の後、この木綿糸を主賓の手首に、健康を祈る言葉やお祝いの言葉を唱えながら結びつけます。
両手首が糸の輪っかだらけになります。3日は外してはいけません。
私たちはこの木綿糸そのものをバーシーと呼びました。日本に帰るまで取りませんでした。

ほぼ校舎の全景です。この右側にトイレもできていました。




こんなサインがゲートに建てられていました。

その7 「プレイコート」 も続けましょう。
その後1年たち2017年
そろそろ完全年金生活に移行しょうと思い、最後にもう少しだけドネーションをすることにしました。
このノンコーソン小学校に何か希望はあるかとAEFAに聞き以下のドネーションを行いました。

ラオスは雨季には非常に雨が多く、道路の冠水は日常茶飯事。学校のグラウンドもこんなになってしまいます。
それでAEFAの勧めもありグラウンドが冠水しても運動ができるプレイコ-トを建設することにしました。
これで雨季も運動できるようになりとても喜ばれたそうです。
もう1度ここノンコーソン小学校を訪ねてみたいと思いますが、新型コロナウィルスの今、なかなか困難かと思います。早く海外に行けるようにならないかなー
それまでは一人で夜空の写真でも撮りますか?
でもこれも雨ばかりで・・・・

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ラオスの小さい村に小学校を建てる(2015年) その1

2020-07-04 21:23:32 | 社会貢献
ラオスの貧しい村(ラオス国そのものが貧しいので、貧しい村というのは当たらない
かもしれません)に小学校を建てました。
友人達に年賀状でちょっとそのことを知らせたら、その話を少し詳しく知りたいといわれたので、数回に分けて顛末を公開したいと思います。

Before
ラオス サラワン県コンセドン郡ノンコーソン村の小学校です。


視察に訪れた時文房具などをプレゼント
子供たちはとても喜んでくれました。

バラックのような建物ですが勉強の意欲はとても旺盛です。
屋根はトタン葺きで雨季には雨音で先生の話が聞こえません。
床は土間で、これも雨季には水につかります。

After
村人みんなが地盛りを手伝い、その上に校舎が建ち、雨季にも水に浸かることはなくなりました。

1年後新校舎の開校式に参加した時に撮った画像です。
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ラオスの小さい村に小学校を建てる(2015年) その2 なぜその気になったのか

2020-07-04 21:23:14 | 社会貢献
もう70年以上も前のことになります。
1948年(昭和23年)6月28日午後5時過ぎ(サマータイム)福井大地震発生
福井市の被災状態 火災発生にて悲惨な有様です。ひしゃげたビルは百貨店

福井市で8割の家屋が倒壊 さらに火災発生
わが町丸岡では倒壊を免れたのは2軒のみと聞きました。

九頭竜川にかかる橋はすべて落ちてしまいました。

わが町のシンボル丸岡城も全壊 石の鯱も完全に落下している。
私と弟は家の下敷きとなりましたが、かろうじて倒壊した柱や家具の隙間に位置し勤め先から、倒壊した家々の屋根を乗り越えて帰ってきた父に掘り出されて助かりました。火災も発生し1晩中町は燃えていましたが、風の向きが我が家とは反対方向
だったこともあり、二人とも助かったのです。その後小学校高学年になり、人の命を考えられるようになってくると、助かった命、天が与えてくださったのだ。
世のため人のためになることをしなければならないと純粋に思うようになりました。
そんな思いを実現するために、貧しい国のキラキラ瞳の輝いている子供たちに小学
校校舎をプレゼントすることにしたのです。(それほど単純ではないのですが)

以下福井大地震のまとめのコピー
昭和23年6月28日午後4時13分(当時サマータイムで午後5時13分)、福井平野を震
源とするマグニチュード7.1の地震が発生した。地震動は強烈で、震源近傍では住
家の全壊率100%の集落が多数出現し、3年前の福井空襲から復興途上にあった福
井市でも全壊率は80%を超えるほどで、内陸で発生し都市を直撃した強い活断層
地震である。内陸の地震は多いが、福井地震は被害が集中的に発生する都市直下
型地震で、住家の全壊34,000棟を超えた。地震の直後から火災が多発し、福井市で
の2,407棟を含む4,100棟以上が焼失し、被害を拡大させた。人的被害では死者
3,769人に及び、震度7(激震)を創設するきっかけとなった強い地震動は、鉄道、道
路、河川堤防、橋梁、水道等の土木施設にも多大な被害が発生し、被災地の中央を
東西に流下する九頭竜川では全ての橋梁が被災し、被災地への支援は北部を石川
県側から、福井市を含む南部を県中南部と滋賀県側から救援する事態であった。
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ラオスの小さい村に小学校を建てる(2014年) その3 

2020-07-04 21:22:42 | 社会貢献
学校建設に関する最初のドネーション
女子教員養成学校の炊事棟

このころ弟は認定NPO法人AEFA(アジア教育友好協会)の理事長となっていた。母親(両親は教員でした)が亡くなってから年も過ぎ
「世のため人のためになるような人間になれ」といつも言っていた母親の名前で教育に役立つようなドネーションを一緒にしないかと誘われた。
今現在は共産主義国であるラオスは中国の援助を多く受けて中国寄りになっているが、6年ほど前はまだ日本からの援助も多くかなり親日的であった。(今親日的でないというわけではありませんが)
教育に関するものとして、女子教員養成学校の炊事施設が老朽化し雨が降りこむ状態となっているとのことで、
これを食事もできるテーブル付きの施設として建設しょうということになった。
この時は建設費を分担したが、建設計画などすべて理事長任せにした。

ラオス? どこにあるの?
中国の南 インドシナ半島にあります。

北は中国と国境を接し、東はヴェトナム西はタイ、南はカンボジアと接しています。
海のない国です。大河メコン川に沿っています。
日本の本州よりやや小さく、人口700万くらい。首都はビエンチャン、最近はルアンパバーンが観光地として世界的に有名です。NHKでは石灰台地、巨大鍾乳洞などで紹介されましたね。
観光についてはラオスに2度行きましたので、また別に旅行のカテゴリーで紹介したいと思います。人生終わりかけで始めたブログなので過去のものも年代を入れてアップしていきたいと思っています。

Before
雨漏りします。雨が吹き込みます。


コンロや鍋を置くテーブルもありません。

After
2015年事前調査でラオスに行った際に女子教員養成学校を訪れた時、開所式をしてくださいました。


電気やガスはありません。薪や練炭のコンロで炊事をしますのでオープンです。

テーブルとイスもあり食事可能です。

TANIKAWAファミリーのサポートで建設したフサコハウス

房子は母親の名前です。肖像も掲げてくださいました。
先生の卵たちにとても感謝されました。言葉はわかりませんでしたが。
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