皆様こんにちは。
今日は、少し人間的なお話を書かせて頂こうと思います。
本当は、もう少し後にアップしようと用意していたものです。
前にも書いたかも知れませんがこの時期になると毎年思い出すお話です。
このお話は、今から10年以上前、Tao Planningを始めるずっと前に博多の友人から聞きました。
ネットにも多くの方が書いて頂いておりますが私が聞いたお話を書かせて頂きます。
ここに一枚の写真があります。
ご覧の通り、昭和の日本の写真です。
一見すると小さな弟を連れて遅くまで遊んでいて、母親に怒られている写真に見えるかも知れません。
この写真を撮られた場所は、長崎。
そうです。原爆投下直後の長崎の写真です。
この写真を撮ったのは、アメリカ軍カメラマン、ジョー・オダネル氏。
彼は、19歳でアメリカ軍に入隊し、太平洋戦争に参加。パールハバーの攻撃を知り、打倒日本に燃えていました。
そして、日本の敗北、アメリカの勝利を太平洋上で耳にします。
そこで彼が言った一言
「ざまあみろ!ジャップめ!」
「ようやくこれでアメリカに帰ることができる」
そう思っていた矢先、敗戦直後の日本の調査を命ぜられました。
そこで彼らが見たものは、自分達が想像していたような日本人ではなかったのです。
自分たちアメリカに徹底的に痛めつけられ、家族、親類、友人、知人を失っても尚、日本人は、アメリカ人の自分たちにやさしく、温かく、親切に接してくれたのでした。
その体験がジョーオダネルを変えて行きます。
そのような時に出会ったのが写真の少年でした。
この少年の背中に背負われている小さな弟は、すでに死んでいます。
少年の足もとに「縁」のようなものが見えますがこの前には、今まさに原爆や爆弾によって殺された人々が焼かれている「焼場」の前に彼は、立っています。
戦争ですべてを失い、両親も失い、そして最後に自分自身が一人で守ってきた弟も死んで、たった一人で焼場に埋葬に来た少年の写真です。
この少年に出会った時の事をジョーオダネルは、こう書いています。
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焼き場に十歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。
少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。
その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。
係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。
炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。
気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。
私は彼から目をそらすことができなかった。
少年は気を付けの姿勢で、じつと前を見続けた。
一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。
軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。
私は彼の肩を抱いてやりたかった。
しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。
急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。
一度もうしろを振り向かないまま。
係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。
その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。
今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。
”あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか。”
この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。
アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。
直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。
そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。
もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。
私はなす術もなく、立ちつくしていた。
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「焼き場に立つ少年」と題されたこの写真。
平成19年、美智子皇后がお誕生日にこの1年、心に残ったものは、何ですか?という問いにこの写真を上げて頂きました。
戦争が良いとか悪いとか、誰がどうとか言うつもりは、全くありません。
この写真の彼は、一人ぼっちになり、気落ちしそうな自分を奮い立たせて最後の身内を見取り、帰って行きました。