退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
ご笑覧あれば大変有り難く存じます。

「『すまなかった』ですか。―塩漬け准教授の仕掛け―」(2)(愚か者の回想三)

2020年09月11日 20時39分35秒 | 日記

(「『すまなかった』ですか。―塩漬け准教授の仕掛け―」はファンタジーです。実在する個人及び団体とは一切関係ありません。)

 2.開学から数年後、若い教員の昇任議案が教授会に提出された。同じ領域の教授が准教授の昇任を教授会に諮る議案だった。教授会にも教員の昇任について発議する権限があるのだと知った。

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 私は共通科目担当教員である。講座制のような空気で動いている専門教員集団とは距離がある。キャンパスが分かれている関係で現実に地理的にも距離があったがそれ以上に距離を感じていた。果たして私の昇任を発議するのは誰なのだろうか。私の業績評価をできる人はいるのだろうか。この大学には私を除き法学の専門教員はいない。少なくとも研究者として法学を専門とするものはいなかった。あまり気にしたことは無かったがこのとき初めて少し気になった。

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 その昔、採用面接らしき面談のときのことであった。定年は71歳、通勤手当は実費全額支給、教員の臨時宿泊施設完備。これが後に事務局長になる男が私に示した条件であった。

 だが、採用後、すぐに通勤手当には上限があること、臨時宿泊施設を平教員が使うことができないことが明らかとなった。ひどい話だ。「まぁ、仕方がないか。」あきらめるしかない。おかげで前任校の退職金の多くの部分が通勤費と宿泊代で消えた。

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 ところが、数年後、定年年齢が65歳に引き下げられることが学内公報に載った。追い打ちか。これは一大事だ。拙宅ローンは73歳まである。

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 その後、組合が法人と交渉し68歳となったとの教授会報告があった。それでも3年も短くなった。ちなみに、系列大学とはいえこの法人が設置する大学に組合があるとは知らなかった。

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 私は決して怠けていたわけではない。恩師の教えに従い「研究」などと大仰な呼び方はせず「勉強」と呼ぶが、勉強はしていた。普通の研究者と同じように然るべき期間に然るべき業績も残してきた。

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 今日まで久しく諸々ご教示を頂いているある仏教寺院の御住職に、退職のご報告に伺い准教授のまま定年を迎えた旨をお伝えした。元某大学の学長の職にあった御住職は、「何年御在職であったか。」と問われた。「15年です。」とお答えすると、「それはおかしな話ですね。」と同情してくださった。やはり異常な処遇であったようだ。

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 もっとも、複数の神輿仲間は私と行き会うと「教授!」と声をかけてくれた。嬉しかった。

 また、地元紙も比較的長く私に関する記事では「H教授」と書いてくれた。有り難いことであった。

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 そしてあの日、である。開学から6年が過ぎた。この年の年度末、開学時からその職にあった学長が退職することになった。他の偉い教員の退職や異動の時と同じようにお別れの会が開催された。

 来るものを歓迎し去るものを惜しむ。古来より人の作法だと思うので当たり前に出席した。

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 「H先生。よく来てくれました。」という思いがけない発言の後、「すまなかった。本当にすまなかった。どうしてもHさんの昇任人事を出せなかった。申し訳ない。」と学長が言った。わが耳を疑った。

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 あの噂を思い出した。根も葉もない噂だ。悪意すら感じていた。しかし、学長がこの噂を流した目的は教授会の発議を止め、己の不作為を正当化するためだった。

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 そもそも、たまたま御神輿渡御に遭遇したからと言って飛び入りで担げるほどこの町の御神輿渡御もゆるいものではない。

 したがって、御神輿渡御の作法を全く知らないものが流したうわさだということはすぐに分かる。

 事実、これを知る同僚は噂を信じていなかった。信じてはいなかったが「それは違う」と声を上げる人も当然いなかった。前任校と同じだった。

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 教授も准教授も「准」の文字があるか無いかの程度でそれほど大きな差は無いと愚考していた。

 ところが、退職する日の半年ほど前の頃だっただろうか再び不吉な封書が舞い込んだ。

 「貴殿は来年3月31日をもって定年により退職することになりますので通知します。」

 学園本部人事課発の文書であった。さすがにこれには動揺した。

 68歳ではなかったのか。当時の教授会資料を見返した。たしかに、「教授及び准教授:68歳となる年度の末日」と書いてある。しかし、その後、学則が改定され准教授は65歳に引き下げられていた。知らなかった。

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 3年という年月は大きい。ローンの残りをいくらかでも減らすことができたはずだ。しかし、同じように教員の経費をいくらかでも減らすこともできる。あの噂を信じるものはいない。だが、あの噂があることで都合がよい人もいた。

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 風邪でもひいていたのだろうか。「すまなかった。申し訳ない。」と言っているとき彼は鼻をすすっていた。「すまなかった。申し訳ない。」と本当に思うなら後任の人事権者にHの昇任人事について申し送りをするのが自然の成り行きだと思う。しかし、この学長が退職した後もHの昇任人事はなかった。お飾り学長にはそんな権限も無かったのだろう。

 私が定年を迎え退職するまで准教授のままであったのは結局パワハラだった。

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 そういうことなのである。初代学長のパワハラを見て見ぬふりをした執行部の思惑はそういうことだった。合理的推論である。(終)

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 補遺:彼が去って数年後、彼の訃報に接した。退職後4年の時が過ぎていた。御住職に退職のご報告に上がった折り、触れるとはなしに「学長は退任後、数年してお亡くなりになりました。」と話すと「天罰ですね。」とおっしゃった。その言葉のあまりの重さにドキッとした。何も言えなかった。

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故人様のご冥福をお祈りいたします。

合掌

 

(了)


「『すまなかった』ですか。―塩漬け准教授の仕掛け―」(1)(愚か者の回想三)

2020年09月11日 16時46分42秒 | 日記

(「『すまなかった』ですか。―塩漬け准教授の仕掛け―」はファンタジーです。実在する個人及び団体とは一切関係ありません。)

 1.私の退職から9年前。あの学長の退任及び退職慰労パーティーでのことであった。私も出席していた。主役である学長は謝辞を述べ乾杯を終えると壇上を降りその足で真っすぐ私がいるテーブルに向かって歩いて来た。立食パーティーである。テーブルを囲む他の教員にあいさつに来たのだと思い一歩退くと学長は私の前でとまった。

 「H先生。よく来てくれました。」

 思いがけない発言だった。しかし、その後の発言はそれ以上に思いがけないものであった。

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 2019年3月31日、私はこの大学を定年で退職した。65歳であった。退職時の職名は准教授である。

 ご存知の人も多いが、大学の教員が全て教授であるわけではない。大学の教員の通称が教授だというわけでもない。

 一般的に他大学の例では採用後4~5年、遅くとも10年以内には昇任人事が動く。しかし、15年奉職したこの大学で私は准教授のまま定年退職を迎えた。

 9年前、学長の退任慰労パーティーでその仕掛けを知ることとなった。

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 大学で講義する者は文科省の審査を受ける。大学の教員には高校までのような教員免許は無い。その代わりこの文科省の審査に合格しなければならない。そうでなければ大学で教員として講義を担当することができない。

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 合格する資格には違いがある。私は軽い方だ。特に国(文科省)に評価してもらわなくても構わないが、生活ができないと勉強もできないので最低限の収入源は確保する必要がある。その為、必要ならば審査を受けざるを得ない。

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 もとより、他の国家試験とは異なり個人が受験票を文科省に提出して審査を受けるというものではない。その人物を採用しようとする大学が本人の業績を付して文科省へ審査を請求するようだ。しかし、文科省も、ドイツのような教授資格請求論文制度(後記)があるわけではないので、採用する大学の判断をほぼ100%尊重する。「尊重する」と言えば聞こえは良いが鵜呑みにしているだけだ。だから学位の無いものや論文業績の無いものまで横滑りで大学の教員になることができる、わけだ。

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 大学で講義を持つ教員には教授、准教授、講師という種類がある。大学によっては講師の次に助教や助手という職名で人材を確保するところもある。だが、助教や助手は講義を持たない。

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 日本では多くの大学で教員の公募に当たり「博士の学位を有する者」という条件を付している。だが、現実には博士どころか修士の学位すら持たないものが大学の教壇に立つことも頻繁にある。

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 しかし、これに対して、外国には教授資格というものを置き学位とは別にこれを扱う国がある。たとえば、ドイツでは学位請求論文(Dissertation ディッセルタチオン)とは別に教授資格請求論文(Habilitation ハビリタチオン)を提出しこれが認められなければ教授にはなれない。良い制度だと思う。

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 ちなみに、学位には博士、修士、学士他があり古くは「○○博士」、「○○修士」と表記されたが、これも法律が改正され「博士(○○)」とか「修士(○○)」と表記されるようになった。どうでも良いことだが、私の学位記には「修士(法学)(中央大学)」と書いてあった、ように記憶している。
  
近年、中央大学でも諸般の事情から博士の学位が出るようになった、と聞く。だが、私がいた頃は「博士は出さない」という大学だった。学究よりは実学をめざす学風を考えれば十分納得のゆく哲学であり全く疑問を感じなかった。むしろ博士の学位は「勉強おバカ」の印象を持たれるので無用なものと考えている人が少なくなかった。

 私にとっては、唯一、自分が師事する先生に評価してもらうことこそが大切であった。この思いは私の勉強仲間も同様であったと思う。これは法に対する認識の違いから生じる哲学の違いだと言ってよい。詳細は別の機会に譲ることにしよう。

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 ところが、その後、法改正に伴いどこだか知らないが(知っていても言わないが)博士の学位を乱発する大学が出てきた。博士の学位が無いと就職できない傾向も強まり就職状況が危惧されるようになった。斯くして、多くの私学でも博士の学位を出すようになった、と聞いたことがある。

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 私が前任校に採用されたとき、その身分は助教授であった。その後、法律が改正され呼称が准教授になった。だが実体は変わらない。通常の大学では教授も准教授も講師も同じように講義を持つ。
 古の講座制のように助教授や講師が教授の手足のように支配される仕組みでは助教授や講師は常に教授の目をうかがう日々となる。
 だが、今では表立ってこうした制度を採用しているところは少ないと聞く。ただし、一部には教員自身の意識の中に講座制が残っていて、自縛的、自虐的に動いている助教授や講師もいる。私の周辺にもたくさんいた。見ていて気の毒であり、気持ち悪かった。いわゆる、パワハラやセクハラはこうした環境の中で起きる。まさか自分が被害者になるとは夢にも思わなかったが。

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 前任校では当時、教授に上がる仕組みが無かった。その為、同僚教員で助教授のまま60歳を迎えた人が依願退職した。有能な人だった。

 しかし、この大学には昇任の仕組はあった。事実、私が退職するまでに何人もの同僚が私を追い越して昇任した。開学時、私と同期で採用された講師が准教授を経て教授になった。まれに廊下ですれ違うことがあったが、そのたびに態度が変わっていくのが不思議だった。後で昇任していることに気付いた。昇任すると態度も変わる。偉いのだ。

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 採用時、私は採用試験というものを受けていない。新設校の設置教員ということで、「採用する」というよりは設置法人が揃えなければならない職員の一人として前任校の副学長が押し込んだだけである、と感じていた。いわば邪魔ものだったのかもしれない。しかし、大学の教員資格を有するものは必要だったのだろう。

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 私に限らず専任教員には長くいて欲しくないのが経営側の本音のようだ。折りに触れ理事者が、「ここに骨を埋めるつもりでいては困る。大いに羽ばたいて欲しい。」と不可解な発言をしていたことを思い出した。

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 そんな折、「変な噂が流れている」と親切な同僚が教えてくれた。「H准教授は高速バスで大学に来る途中、神輿を見つけるとそこで降りて担いでいた。そうして何度も授業をすっぽかしていた。」という噂である。事実無根。根も葉もない噂だ。聞き捨てならない。

 ところが、その噂の発信源があの学長だというのだ。さて、どうしたものか。(つづく)


「『辞表』を持って来い。」(8)(終)(愚か者の回想二)

2020年09月07日 19時43分34秒 | 日記

「『辞表』を持って来い。」(終)(愚か者の回想二)

(「『辞表』を持って来い。」はファンタジーです。実在する個人及び団体とは一切関係ありません。)

 8.かくして翌日の午後、使者が来た。

~~~ 以下再掲 ~~~

 その日もいつもと変わらず少ない人数ながら優秀な学生諸氏を相手に法学の講義をしていた。講義時間が終わるまでまだ数分あるのに後方の出入口から人が入ってきた。学生でないことはすぐに分かった。職員である。講義中に無作法なことをするものだ。

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 ほどなく講義は終わり学生諸氏が退出した後、この職員が教壇に向かってゆっくり近づいてきた。何とも気まずい雰囲気をまとい、足取りは重そうだった。教卓の向こうで足を止めたのでこちらから声をかけた。

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「退職願を出せと言っていますか。」と私。

「はい。学長が辞表を持って来いと言っています。」と職員。

「いいでしょう。私は私が持つすべての知識と人的資源を使って戦います。学長にはそう伝えてください。よろしくお願いします。」と私。

「はい、分かりました。」と職員。

~~~ 以上再掲 ~~~

 出勤日は講義のあるときだけ。それ以外の日は自宅か学会の研究会に出席するというのが私の勤務状況であった。これは社会科学系教員として至極当然の勤務形態だ。とりわけ法学系教員では、毎日出校し研究室にいるものは無能だと評価されるのが普通だ。

 今でこそインターネットを使えばある程度情報収集は可能だが、少し前までは裁判所、警察、繁華街等々関係する場所へ直接出向き調査をし、あるいは研究会に参加するという行動が法学系研究者の当たり前の日課であった。今も、インターネット情報がすこぶる不正確であるので現場主義は変わらない。

~~~

 これに対して、この大学は理系である。理系教員は大学の研究室や実験室にこもるのが常態らしい。したがって、出勤簿には出勤を示す印が並ぶ。私のそれには自宅研修を表す「宅研」の文字が並んでいた。このことも相まってか、本件は私を退職させるのによい口実でもあった。

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 この日の翌日は宅研である。珍しく8時30分頃携帯電話に着信があった。

「はい、Hです。おはようございます。」

「あぁ~、モシモシ、おはようございます。Yです。昨日はどうも。」

「はい、何か。」

「あのですね、あの件、昨日の件ですが無かったことにしてくれと学長が言っています。今後も本学のために尽力してほしいそうです。」

「わっかりましたぁ~。よろしく~。」

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 何ともだらしない幕引きであった。拍子抜けするとはこういうことか。とはいえ、一家が路頭に迷うことは避けられた。有り難い。

 昨日のうちに事情を伝え、方針を検討してもらっていた友人の弁護士に断りの電話をした。

 しかし、これが引きずっていた。(終)


「『辞表』を持って来い。」(7)(愚か者の回想二)

2020年09月07日 19時24分37秒 | 日記

「『辞表』を持って来い。」(7)(愚か者の回想二)

(「『辞表』を持って来い。」はファンタジーです。実在する個人及び団体とは一切関係ありません。)

 7.5月のお祭は無事終わった。学生諸氏の評判も良かった。「センセイ、けっこうやるじゃねぇ~か。」という声に感動した。知り合いが増えた。私を紹介してくれる人もいた。

「こいつ知ってかぁ~?」

「しってっどぅ~、今度来た大学の先生だっぺ。ミコシバカだぁ~。」(笑)

 渡御後、M宮の祭礼実行委員会の鉢洗いにもよばれ美酒を堪能した。めまぐるしく周囲の環境が変化していった。紹介されるのは大変嬉しく有り難い。ちなみに、皆、すごい迫力で慣れるのに時間がかかった。これがこの町の文化だということが分かるにはもう少し時間が必要だった。

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 あのときの専務のおかげで知り合いはさらに増えた。この町で最も大きなお祭。それは、利根川が太平洋にそそぐ河口付近に位置するK神社の祭礼だ。

 これまでに見たことも無い巨大な御神輿だ。「大きいですねぇ~。」と感嘆したところ、「これはちっちぇえ方だ。」と専務。そして、もう一基の御神輿を神輿庫に見に行った。大きい。実に大きい。いずれも浅子周慶作。鳳凰の両の羽が大きく前にせり出しているのが特徴だ。立派だ。

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 この祭りの御神輿渡御では途中一部、御神輿を大型トラックにお載せする。祭礼の日が旧暦6月15日の大潮の日と決まっているので曜日に関係なく斎行される。したがって、多くの場合、祭礼は平日となる。

 朝6時30分の宮出しには百人以上が集まる。だが、平日はそれぞれ仕事があるので宮出しが終わると担ぎ手は減る。夕方5時30分頃の宮入まで続く渡御である。どれほど屈強で御神輿好きでも、人には限界がある。やむをえずトラック渡御となる。トラックにはしめ縄が張られている。

~~~

 その大型トラックが近づいてきた。進路を妨げないように避けるとさらにこちらに近づいてきた。

 「おぉ~、先生よぉ~、乗ってけよぉ~。」と呼ぶ声がした。助手席から知り合ったばかりの會の会長が私をよんだ。

 トラックに乗る。運転しているのは別の會の会長だ。

「俺のダチだ。おぼえといてな。」

「先生だ、知ってっぺ。」

「おぉ、ミコシバカだっぺ。」(笑)

 また一つ、知り合いの會が増えた。この年の大潮祭が終わる頃にはほぼ全ての會の会長を知ることとなった。有り難い。こうして増えた神輿仲間が私を助けてくれることになる。

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 そんな愉快で有り難い日々が続くなか事件が起きた。

 食中毒である。

 はじめ、大学の保健センターに、「吐き気がする」、「熱っぽい」と訴える学生が来た。すぐにその数は増えた。異常に気付いた担当職員が学生部の職員に連絡した。ところが、職員の中にも、そして教員の中にも同じ症状を訴えるものがいた。

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 敏腕ぞろいの職員である。あるものは上層部に指示を求め、あるものは直ちに学内一斉放送を使って「体調の悪いものは申し出るように。」と告げた。

 さらに、不調を訴えて来た学生に「下校した仲間に連絡を取ってくれ。」と指示を飛ばした。最良の判断だ。案の定、自宅アパートで不調となり困惑している学生諸氏が少なくなかった。

 続けて敏腕職員はそうした学生諸氏に学校へ来るよう指示を出した。これ以上は無いと言ってよいほど的確な判断と指示であった、と私は今もそう思っている。

 しかし、このとき上層部からは一切指示が無かった。理由を後から知りすこぶる腹が立った。

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 食中毒の原因は大学の食堂のメニュー「さんまのミンチハンバーグ」であった。不幸中の幸いというか、重症者はいなかった。

 ところが、この事態について大学当局の説明が無い。翌日になっても無い。「このままでいいんですか。」というある教員のメールが回ってきた。良いはずはない。このメールに応える仕方で、大学当局に対応を照会した。しかし、反応は無かった。

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 この種の事案は初動対応が重要だ。保健所の指摘を待てば大学の信用を失う。当然、不調を訴えた学生諸氏の中には保護者に連絡をしたものもいるはずだ。外からの指摘で動くのではなく第一報を大学から出すのが本来の姿だと私は確信しその旨を全教職員宛メールで発信し続けた。もちろん、本来の名宛人は責任者である。

 メールの内容は、現状を逐次学生諸氏の保護者へ報告すべきだというものだ。故郷では保護者が大変心配しているはずだからだ。併せて、報道機関へも発信すべきだろう、早晩知れ渡ることなのだから。

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 ところが、あるときメールを打った直後に広報部の責任者が私の研究室へやってきた。

「やめてくれませんか。」これが第一声だった。

「名宛人はあなた方ではありません。あなた方へ発信しているのは発信記録を残すためです。分かりますか。」

 責任者は私の言葉に納得した。

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 これは教員である私にしかできない。

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 学内宛にメールを打ちながら、これと並行して事実関係の確認もした。

 さんまのミンチによる食中毒について私には知識が皆無であった。そこで、神輿仲間の漁師と加工工場の知合いに話を聞いた。

 「あぁ、あれね。たまにあたるんだよね。一晩苦しめば終わります。」実に軽い返事が漁師から帰ってきた。

 「あれはねぇ~、調理するときの温度なんですよ。20℃を超えるとヤバいっすよ。皮と身の隙間にいるやつが20℃を超えると繁殖するんですよ。」と、加工工場の知合いが教えてくれた。

 原因と症状がわかった。

 なるほどそうか。重症には至らない。まず一安心だ。これを私の講義に出ている学生諸氏に伝えた。優秀な学生諸氏はこれを体調を崩した他の学生たちに伝えた。このようにしてほぼ全ての学生諸氏に原因と症状と回復までの時間が伝わった。

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 その日の翌日だっただろうか、メールボックスに不審な文書が投げ込まれていた。その文書は私だけでなく全教員に配布されていた。

 「本学を廃校に追い込もうとしている輩がいる。直ちに名乗り出るように。」という趣旨の文書であった。日付も作成者名も宛名も無い怪文書であった。

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 ほどなく、最初に本件に付いて発言した同僚教員から「ヤバいですよ。」とメールが入った。丁寧に謝意を述べた後、「日付も作成者名も宛名も無い怪文書が出回っていますね。発信者は誰なのでしょうか。」という趣旨のメールを発信した。

 その後しばらくして学長名で、「本件に付いては今後一週間いかなる発言、発信、コメントもしてはならない。」という趣旨のメールが回った。翌日、この地域を管轄する保健所から集団食中毒発生の公報が発せられた。

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 学内では、本件発生直後に現場で体調不良の学生諸氏の対応をし、全学放送で体調不良者に出頭を喚起するなど神対応をした敏腕職員が、「事態を無用に拡大した」として注意処分を受けた。

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 本件の当事者発表が遅滞した理由は当日の上層部の行動にあった。「中央からの客」の接待があり事態対応ができなかったということであった。上層部に属する人とは誰だったのだろうか。「中央からの客」とは誰だったのだろうか。探ってみるとおもしろいかもしれない。

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 私が当事者発表を強く求めた理由は複数ある。理念的なことよりは現実の問題があった。

 さんまのミンチが扱いを誤ると食中毒を起こすことはこの町では広く知られている事実だった。しかし、問題はどの段階で原因物質が繁殖したかだ。冷凍前に繁殖していれば適正温度で解凍して調理しても食中毒を起こす危険は残るという。他方、安全に冷凍されたにもかかわらず調理場の温度が適正温度を超えていれば原因物質は繁殖する。事情を知るものはどちらが責任を負うべきなのか見えて来る。食材を卸す側と調理に当たるものとの責任問題に発展する危険がある。これは当事者である大学が早い段階で明確な事実を公表する義務を負うべき状況だった。

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 あの日、調理場の室温は適正温度を超えていた。経費節減のため調理場の空調設備の設定温度は適正温度より高くすることが業者に求められていた。(つづく)


「『辞表』を持って来い。」(6)(愚か者の回想二)

2020年09月07日 16時16分08秒 | 日記

 6.この年のパレードではほとんど担がなかった。それが作法だと考えた。立場を入れかえれば当然わかることだ。終始眺めていた私に別の役員が「先生、入りなよぉ~。」と言って、明らかに接待と分かる仕方で前真棒の最前部に入れてくれた。しかし、すぐに押し出された。こうして記念すべき初めての御神輿参加が無事終わった。

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 秋も過ぎこの町の御神輿の季節が去った。私は大学の袢纏をつくることにした。敏腕の職員が力を尽くしてくれた。大学の予算で祭袢纏をつくる。ちょっと考え難いことだ。しかし、担当職員は言い放った。

 「この町は祭が盛んだ。海外からも留学生が来る。式典もある。そんなときに使えるものでなければ作る意味がない。スーパーのバーゲンセールで店員が着るような安物では大学の恥だ。」

 みごとな論陣を張り経理を納得させた。予算が付いた。市内の呉服屋へ話を持ち込んだ。

 この店のショーウインドーには季節になると祭袢纏がたくさん飾られる。同好会がこの店で作った袢纏だ。お店の佇まいからして老舗である。袢纏で最も重要な背柄は大学名とし、この町の名を短冊で斜めに入れた。色は濃い緑。毎年5枚4年間で20枚つくることになった。これとは別に襟に自分の名を入れた袢纏を妻のものと併せて2枚自腹で作った。

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 年が明けた。袢纏が出来上がってきた。良い出来だ。値も良い。自腹の部分はキツイが、まぁ、いいだろう。

 背柄は、お世辞にもカッコいいとは言えない。大学名が江戸文字の漢字で縦に二行に渡って5個並ぶ。中央の短冊でかろうじて祭袢纏らしさを維持していた。

 年度が替わり祭の季節が始まる。それに先立ち開学祭が行われた。どうやら地元住民と折り合いがついたようでメインキャンパスが完成していた。そして、市の職員と本学職員を兼務する人の肝いりでこのキャンパスで御神輿渡御が行われた。

 C大袢纏のデビューである。この町へ来る前から知り合いだった隣の市に住む仲間たちが遊びに来てくれた。そのうちの数名はC大袢纏を羽織ってくれた。嬉しい。有り難い。学内の外周を一周するだけの渡御であったがこれには大変大きな意味があった。

 ちなみに、式も盛大であったらしい。聞くところによると後の総理大臣も式典と祝賀会に参列していたらしい。私には関係ない。

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 すでにこの頃、私を引き受けてくれたM宮の担ぎ手を中心にこの町の神輿仲間は急速に増えていた。私は名刺を配りまくっていた。パソコンとプリンターで作る自家製名刺だ。大学の公式デザインの裏に袢纏の背柄を刷り込み個人の連絡先も入れた。半纏を着た自分の顔写真も入れた。自分のためではない。大学に対する負のイメージを変えるためだ。否、大学自体はどうでも良い。大切なのは学生諸氏だ。大学に対する負のイメージが変われば学生諸氏に向く目も変わるだろう。

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 この大学は関東では後発の弱小小規模大学だ。しかし、学生を確保するには全国に入試会場を展開し、全国から学生を受け入れざるを得ない。もちろん留学生で埋めざるを得ない席もある。この環境を良好なものに維持するには地元の協力は絶対不可欠だ。

 もとより、地元というのは役所ではない。住民だ。誘致段階では、「高齢化が進む町に若い学生があふれる。」、「学生専用マンションをつくれば常に満室だ。」というプラスの掛け声が多かった。

 だが、ふたを開けてみると町が学生で賑わうことは無く、学生専用マンションも空き室が目立った。当初の負のイメージとは異質な、現実の負の評価が広がりつつあった。

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 もとより、「大学のイメージアップ」なぞ一介の平教員が関心を持つ必要は無い。事実、私のような行動をしている教員は私を除き皆無だった。

 しかし、はるか遠くから単身で子供をこの地に送り出した親の気持ちを想うと教員として自分にできることがあるならばやるべきだと無条件に考えていた。ずいぶん持出しもあったが。

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 5月になった。祭の季節が始まる。一年の最初に上がる神輿がM宮だ。二年目のこの年、私は学内に神輿同好会をつくった。入会するものも二名いた。嬉しい。この二名は開学祭で初めて御神輿を担いだ。そして、5月の御神輿渡御に参加した。

 「おぉ~、センセイ、半纏つくったんだ。」と声をかけてくれる人もいた。嬉しい。「本気じゃねぇ~か。」と言ってくれる人もいた。

 大学の干乾びた教員が興味半分で担ぎに来ても早々に退散すると思っていた人もいたようだ。実際、昨年のパレードではほとんど肩を入れなかったのであるからそう思われても仕方がない。また、干乾びているのも事実だ。

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 昨年は、パレード以降も、あればあるだけ妻と二人で御神輿渡御に参加した。行き会う人すべてに挨拶し自己紹介をし「うちの学生をよろしくお願いします。」と頼んだ。5月の祭の頃には連合会にも入れていただいていた。もちろん年会費は自腹だが。

 開学祭は番外だ。大学の袢纏で初めて参加する御神輿渡御がM宮の御神輿となった。

 事件はこの年の初夏に起きた。(つづく)