退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
ご笑覧あれば大変有り難く存じます。

「『辞表』を持って来い。」(5)(愚か者の回想二)

2020年09月06日 15時13分41秒 | 日記

 5.夏祭の「みこしパレード」に参加するには地元の同好会でつくる連合会の承認が不可欠だ。しかし、連合会を構成する同好会の会員のほとんどが漁業関係者である。大学誘致に反対してきた一大勢力だ。何もしなくても大学に対する風当たりは強い。それにもかかわらず、その大学の教員が御神輿を担ぎたいと言っている。誰が考えても難しい相談だ。一つやり方を間違えば永久にこの町では御神輿は担げない。御神輿を通じて交流をしたい、大学に向けられた感情を和らげたいとの愚考はぶっ壊れる。否、そんなことはもうどうでも良かった。とにかくこの町で御神輿を担ぎたかった。

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 4月に講義が始まり、連休が終わり、すでに7月だ。そんなおり例の役員のSさんから、「パレードの説明会があるから出席して。」と軽く誘いの連絡が入った。

 説明会。誰が参加して、どんな説明会になるのだろうか。不安はつのる。参加者を問うと、「各会の代表と役所関係者、それと警察もくっかな。」ということであった。場所は青年会議所の会議室だと言われた。会議室。説明会。この文字に私は勝手に数名、多くても十数名の会議を想像した。勝手に。

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 説明会当日、もらった地図を頼りに会場を探した。駅から歩いて5分ほどの場所だった。想像していたものとは違う。会議室は体育館のような広大なものであった。すでに机とイスが何列にもわたって置かれていた。

 冷静に考えれば想像できたはずだ。この町の同好会は100に近い。各会から代表者が1名参加しても100人近い人が集まる。仕事上、対面する人の数でビビったことは無い。300人前後の学生諸氏を相手に私語一つ無い状態を維持したまま100分の講義を行ったことも一度や二度ではない。しかし、今回はそんな経験は全く役に立たない。想像しただけでビビった。

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 30分程早く着いた。すでにそれらしい人がロビーでくつろいでいる。外交辞令だ。「こんばんはぁ~」と頭を下げる。「・・・」相手様は私を知らない。「何者か。」という反応だ。

 しばらくして例の役員のSさんが来た。「先生、早いね。さあ、入ろう。」と入室を促してくれた。会議室にもすでに何人かいた。頭を下げて入室した。

 促されるまま席に付いた。「C大学のHです。よろしくお願いします。」すでにその席についている人たちもすごい迫力である。うなずくだけで声になる返事は無い。その中で一際貫禄のある人が「おぅ。」と答えてくれた。この人はこの町の有力者で魚の加工工場の専務である。この人のおかげで私はこの町で大変楽しい時を送ることができた。

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 会議が始まった。パレードには御神輿が六基出るようだ。会議の主たる議事はこの六基の御神輿をそれぞれどの会が担当するかという割り振りだ。

 すでに前回までの実績と慣例があるようで割り振りはすぐに決った。立ち上がって帰りかける人もいた。これさえ決まればあとは何の用もない。このとき、司会をしていた連合会の会長が話し始めた。

 「あのぅ~、ねぇ。まだ話があるんだけどねぇ。」年配だがズッシリとした良く通る声だ。立ちかけた人が座った。

 「今年きた、大学の人がね、先生か、先生が担ぎたいと言ってるんだけど、どうだろうかねぇ~。」

 静まり返った。

 「どこ?」前方に座っていたらしい人がつぶやいた。「どこ」とはどの御神輿を担ぐのかということである。

 「M宮で引き受けますよ。」と間をおかずSさんが発言した。また、静まり返った。

 「じゃぁ、いいんじゃないですか。いいですよね。」と穏やかな声で会長は参集者全員に諮るように声を投げた。反対の発言は無かった。

 「じゃぁ、先生、一言、ご挨拶を。」と会長。緊張は頂点だ。

 Sさんに促され、かたわらのスタンドマイクまで歩いた。振り向く。約100人。刺すような視線が一気に自分に注がれるのが分かった。中には下を向いたまま上目遣いにじっとこちらの様子を窺う人もいた。

 「初めまして、C大学の教員をしておりますHと申します。皆様には大変ご迷惑をおかけいたしますが何卒よろしくお願いいたします。」そう言って頭を下げた。そしてそのまましばらくその姿勢を維持した。その間、静寂は変わらなかった。

 すると先ほど「おぅ。」と答えてくれた加工工場の専務がパチパチと拍手をしてくれた。これに促されるかのようにパラパラとパチパチが起きた。ようやく頭を上げることができた。(つづく)


「『辞表』を持って来い。」(4)(愚か者の回想二)

2020年09月05日 14時49分55秒 | 日記

 

 4.「これで行こう。」面倒くさい事をやっても無駄だ。そもそも、不器用な自分には橋渡しなぞできない。それならば自分の好きなことでつながりを探せばいい。そう思った。

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 私は御神輿を担ぐのが大好きだ。嫌がらせ人事で「お前、C-Choへ行かないか。」と言われとき、「やったね!」と思った理由がこれだった。

 このときすでに私は東京で御神輿を担いでいた。同好会にも入っていた。その同好会のつながりでこの町のすぐ近くにある町まで毎年御神輿を担ぎに来ていた。そのこともあって、「この先の町に、ものすごい御神輿がある。」ということは聞いて熟知していた。一年の内、半分以上、どこかしらで御神輿が上がっている町。それは御神輿好きにはたまらない環境なのである。

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 ここの担ぎ方は独特だ。私が知る東京の担ぎ方は、棒の下に入ったならば自分の肩の高さまで上げるのが原則だ。腰を折ったり肩を落として棒に触っているだけならば抜ける。それが作法だ。もちろんそういう輩もいる。しかし、いわゆる担ぎ屋はそういう輩を冷たい目で眺めている。

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 私が担ぐ位置は後だ。これは先輩や仲間の担ぎの哲学に惚れ込んだからだ。

 私がお邪魔に上がる御神輿には前後に通した4本の担ぎ棒がある。呼び方はいろいろだが御神輿の本体から延びる棒を本棒または真棒(または心棒)、その両脇に位置する棒を添え棒または舵棒と呼んでいる。

 御神輿渡御で一番目立つのは右肩で担ぐ前の添え棒だ。車道を進む御神輿渡御は道路交通法上車道を使用するデモと同じ扱いになる。つまり軽車両の範疇に入る。したがって、通行規制が入っていないときは道路の左端を通行しなければならない。このため歩道から見物する人々の目に映りやすい右肩で担ぐ前の添え棒に人気が集まる。しばしば棒の取り合いが起きるというのはこの棒である。

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 御神輿を担ぎ始めた頃、私がいた同好会は前には行かなかった。他のメンバーも徹底して後棒にこだわっていた。はじめその理由がよく分からなかった。前棒では揉め事が絶えないので、あえて後に徹するのかと勝手に考えていた頃もあった。

 しかし、次第にその理由が見えてきた。後棒を担ぐ人には特有の雰囲気がある。それはあたかも「この神輿を支配しているのは自分達だ」と誇るような様子だ。実に良い。

 実際、御神輿渡御を眺めるとそれがはっきり分かる。後棒を担ぐ人が弱いと御神輿が定まらない。安定して進まないのだ。

 しかし、後棒がしっかりしていると、多少前がふらついていても御神輿は安定して進む。小柄な人や女性が形だけ触っていたり、時にはぶら下がっている人がいても後棒がしっかりしていると御神輿は安定して進む。とりわけ後棒もその一番後ろ、つまり端が安定すると御神輿はみごとに安定する。

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 ところが、この町の担ぎ方は独特だ。肩まで上げるはずの御神輿を、肩まで上げたあと棒を肩に背負ったまま何度もしゃがみ込む。そしてその後再び肩の高さまで上げのである。これはキツイ。しかし、楽しい。聞きしに勝る醍醐味だ。

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 この町の御神輿の世界にどうやって入っていったらいいのか。つながりは全く無い。東京では同好会同士で招待したり招待されたりして担げる場所を増やしてゆく。新たな場所へは、それに先立つお祭で知り合いになることから開拓される。したがって、御神輿渡御の場所は非常に重要な意味がある。不作法なことをすれば担げる場所が激減する。

 私は以前同好会にいたがその後離れ単独で行動していた。「単独」とは言っても同好会時代に親交があった仲間が声をかけてくれるので遊びに行けるに過ぎない。御神輿の世界は単独で飛び込めるほど容易いものでは決してない。

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 ところが、ここではつながりはゼロだ。もとより仲間もいない。少し離れた町には同好会時代の知り合いがいるが、私が見る限り、こちらではそうした交流は無かった。

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 そこで、開学に伴い役所と大学のつなぎ役をしているSさんに「この町の御神輿を担ぎたい。」と切り出した。「良いですよ。」と思いがけず軽い返事が返ってきた。これは奇跡か偶然か。この人は市内のある寺の檀家様であった。そして、その寺を置くM宮様では一年に三度、御神輿渡御をしており、Sさんはその渡御の役員でもあった。私が御神輿を担ぎたいと願い出たお祭は毎年8月に開催されるパレードであった。そのパレードでもこのM宮様の御神輿は渡御していた。

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 話は進んだ。私は学内で学生諸氏に向け「担ぎ手募集」を行なった。私個人ではなく大学のサークルとして学生が参加するという形式を採りたかった。

 開学初年度の大学は皆活き活きしていた。職員も敏腕なものが揃っていた。「担ぎ手募集」の掲示も迅速であった。

 しかし、私には大きな試練が待っていた。(つづく)


「『辞表』を持って来い。」(3)(愚か者の回想二)

2020年09月05日 14時29分56秒 | 日記

 

 3.一週間が過ぎた。第2回の講義のため出校すると「不穏な内容」の放送は無くスピーカーも無くなっていた。

 私のように、いてもいなくてもいいような教員には詳しい事情は何も伝わっては来ない。こういうときは、反対している人たちに直にきくしかない。駅前の居酒屋、商店街のソバ屋、漁港近くの飯屋。いろいろな店に入ってきいてみた。

 「ご迷惑をおかけしているようですね。ごめんなさいね。生ビールください。」

 「すんませんね、ご迷惑ですか。刺身定食、お願いします。」って感じだ。

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 講義は複数の日に渡るので当然町の宿に泊まることになる。毎週同じ宿に泊まれば次第に店主とも気安くなってくる。

 「いやねぇ、先生だから話すけど、ほらこの町、漁師町でしょう。浜近くは加工屋さんばっかしなのよ。そうでなくても先生んとこの大学、薬の学部があるでしょう。魚は鮮度だからねぇ~。薬とは相性が良くないのよ。それに危機何とかってのもあるでしょう。何をするのか知らないけどさぁ、実験とかあるっていうじゃないですか。町のイメージ、落ちたら困るのよねぇ~。」というわけで反対の理由のほぼ全てを聞かされた気がした。

 「でも、建ったみたいじゃないですか。なぜ建っちゃったんですか。反対する人が多ければ建たなかったんじゃないですか。」と水を向けてみた。

 「そこなのよ、そこ。それがねぇ。市長よ、市長。あいつが知り合いらしいのよ大学のお偉いさんと。それでね、ちょうど使いようの無かった土地があったもんだからよんじゃったわけよ、『文京の街』とかなんとか言って。こっちはいい迷惑よ、市のおカネ、ずいぶんつぎ込んだみたいだし。税金、急に上がったのよ。」

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 そういうことだったわけだ。市長は元中央官庁の役人だったらしい。たまたま某県へ出向していたとき、この大学の理事長と懇意になった。この大学、否、学校法人は大学をつくることが好きらしい。調べてみると確かに某県を中心にずいぶん多くの大学を経営している。そして、関東への進出をもくろんでもいた。

 一方、彼は地元市に使い勝手の悪い広大な市有地があり、その扱いが悩みの種でもあった。彼としては何か良い使いみちが無いかと考えていたらしい。この点は地元の人は百々承知だ。

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 この両者の利害が一致した。市は大学ができれば町は学生であふれ店も繁盛するとふれ回り人口流出でシャッター通りが目立つ街で大学誘致をスローガンに掲げた。しかし、魚関係者は店主が言った通り大反対だった。町は二つに分かれた。

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 だが、大学関係者でこの状況を知るものは少なかった。もちろん、学生は全く知らない。町を二分したまま走り出した大学だ。何かあったらどうする。自分にできることは無いのか。自問する日々が続いた。
(つづく)


「『辞表』を持って来い。」(2)(愚か者の回想二)

2020年09月04日 14時12分29秒 | 日記

 

 2.話はほぼ一年半前にさかのぼる。再任を拒否され一家が路頭に迷うところ、有り難い嫌がらせ人事のおかげで遥か遠方の地に再就職した頃だ。

 遥か遠方とはいえ、これが思いがけず愉快な人生の始まりともなった。新たな勤務先は、地図の上でもはっきり距離を確認できるほど離れた関東の最東端の町にあった。新設校である。前任校では社会人や現役を退いた人が学生の大多数だった。だが、当然のことながら、この大学では高校を卒業したばかりの若い人がほとんどであった。新鮮だ。

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 新設校であるから人以外は何もかもが新しい。講義室にある黒板も当然新しい。教卓には最新の機器が備えられ、まだ精密機器特有の匂いがするほどであった。

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 しかし、一つ気になることがあった。キャンパスが異常に小さい。最先端のネット大学でもなかろうにこれで全学生を収容しきれるのだろうか。グラウンドも体育館も無い。体育館らしきものはあるが到底体育館とは呼べない代物だ。

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 講義開始日の翌日が私の出講日だった。自由選択の共通科目なので受講者は少ない。少ないとはいえこうして現役の大学生に法遺産を伝えられることは有り難い。

 新しい勤務先である新しい大学で、最初の講義日に新入生を出迎えようと正門近くに立った。そして、驚くべき事態が起こっていることを知った。

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 大学に隣接する地元の魚加工工場の建物にスピーカーが取り付けられ、そこから不穏な内容の放送が登校してくる学生に向けて流れていた。「不穏な内容」の詳細は割愛するが、要はこの大学が地元の反対を押し切って建てられ、学生を受け入れているという内容であった。

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 キャンパスが異常に狭い理由も間をおかず明らかになった。本来、キャンパスを建設するはずの土地について、地元住民から環境アセスメントの調査請求が出たため建設が止まっていたのである。私が講義をするこのキャンパスは、いわば仮ごしらえのキャンパスだった。

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 今は1年生しかいないので何とかなる。しかし、来年以降、万一本来のキャンパスが立たなければこの大学はどうなるのだろうか。私はまた職を失うのだろうか。

(つづく)


『辞表』を持って来い。(1)(愚か者の回想二)

2020年09月03日 13時40分00秒 | 日記

「『辞表』を持って来い。」はファンタジーです。実在する個人や団体とは一切関係ありません。】

 1.その日もいつもと変わらず少ない人数ながら優秀な学生諸氏を相手に法学の講義をしていた。講義時間が終わるまでまだ数分あるのに後方の出入口から人が入ってきた。学生でないことはすぐに分かった。職員である。講義中に無作法なことをするものだ。

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 ほどなく講義は終わり学生諸氏が退出した後、この職員が教壇に向かってゆっくり近づいてきた。何とも気まずい雰囲気をまとい、足取りは重そうだった。教卓の向こうで足を止めたのでこちらから声をかけた。

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「退職願を出せと言っていますか。」と私

「はい。学長が辞表を持って来いと言っています。」と職員

「いいでしょう。私は私が持つすべての知識と人的資源を使って戦います。学長にはそう伝えてください。よろしくお願いします。」と私

「はい、分かりました。」と職員

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 短いやり取りが終わった。事務連絡は終わった。

 「なぜ自分で言いに来ないんだろうねぇ~。」

 「さあ~、分かりませんねぇ~。まぁ、そういうことなのでよろしくお願いします。」

 「すまなかったですね、面倒な使者をやらされて御不快だったでしょう。ひでぇ~ことするよな、学長は。」

 「いえいえ、これも仕事ですから。」

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 彼は元警察官。そんなこともあってか私とはどちらかというと懇意であった。だから学長も彼を使ったのかもしれない。unfairだ。

 公務員や偉い職員ではないので「辞表」ではないと思うが、職員に「『辞表』を持って来い。」と伝えたければ日付の入った公印付きの文書で伝えるのが筋だと私は思う。

 さて、なぜこういうことになったのか、そしてこの後どうなったのか記憶をたどってみたい。(つづく)