『高村光太郎』の有名な詩『レモン哀歌』で
私は深い悲しみを感じます。
今日はその『レモン哀歌』をご紹介します。
< レモン哀歌 >
そんなにもあなたは
レモンを待っていた
かなしく白くあかるい
死の床で
わたしの手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱっとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼が
かすかに笑ふ
わたしの手を握る
あなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
こういう命の瀬戸ぎわに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓(さんてん=山頂)でしたような
深呼吸を一つして
あなたの機関は
それなり止まった
写真の前に挿した
桜の花かげに
すずしく光る
レモンを今日も置かう
…高村光太郎…
<高村光太郎>
詩人・彫刻家。
仏師・高村光雲を父とする。
若い時ロダンの『考える人』の彫刻の写真をみて衝撃を受ける。
女流画家・長沼智恵子と出会い結婚。
智恵子が精神を病み錯乱の末肺結核で死。
死の3年後、光太郎は30年にも及ぶ二人の愛を綴った詩集『智恵子抄』を刊行。
上記『レモン哀歌』は智恵子の死後、最初に書かれた詩。
尚更に詳細は、
下記『ウィキペディア』『高村光太郎』の内容をご覧頂きたいと思います。
彫刻家の高村光雲の長男。東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科に入学。文学にも関心を寄せ、与謝野鉄幹の新詩社に入り、『明星』に作品が掲載されるようになった。卒業後、研究科に進み、さらに西洋画科に再入学したがまもなく退学。岩村透の勧めで1906年に彫刻を学ぶため留学に出て、ニューヨークに1年間、その後ロンドンに1年間、パリに9ヶ月滞在し、1909年に帰国。旧態依然とした日本の美術界に不満を持ち、ことごとに父に反抗し、東京美術学校の教職も断った。パンの会に参加し、『スバル』などに美術批評を寄せた。「緑色の太陽」(1910年)は芸術の自由を宣言した評論である。
1912年駒込にアトリエを建てた。この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品。 1914年に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1929年に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり後に統合失調症を発病した。 1938年智恵子と死別。1941年に詩集『智恵子抄』を出版。
智恵子の死後、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した。 1945年4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。五月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった)。しかし同年8月には宮沢家も空襲で被災し、辛うじて助かる。終戦後の10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動だった。この小屋は現在も「高村山荘」の名前で保存されている。なお、国文学者の宮地裕は学生時代独居自炊していた光太郎に会ったことがある。
1950年、戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版。第2回読売文学賞を受賞。1952年、青森県より十和田湖畔の記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京中野区のアトリエに転居し、記念碑の塑像(裸婦像)を制作する。この像は翌年完成した。
1956年に結核のため死去。この高村の命日(4月2日)は連翹忌と呼ばれている。
参考資料:『ウィキペディア』
『高村光太郎』