TAZUKO多鶴子は南米にとても魅せられています。
いつか一度は訪れてみたい…。
歴史や文化や芸術や哲学や科学や…
幸いにも様々な事を学び経験する機会を与えられて、
近年、益々TAZUKO多鶴子は南米に引き込まれています。
今日は先ず最初簡単に『インカ帝国』をご紹介します。
………………………………………………………
『インカ帝国』は『プレ・インカ』の伝統を受け継いで
金やトゥンバガ(金と銀・銅あるいは錫の合金)を精錬する技術を持っていた。
それはヨーロッパの技術が伝わるよりも前からである。
貨幣は用いられておらず、物々交換によって経済活動を行なっていた。
税金の代わりに、農産物などを国に献上していた。
また文字文化も持たなかった為、
歴史や文化面で不明確な部分もあることも手伝って
現代人に神秘的な印象を与え魅せられている人が多い。
ただし、文字文化は無かったが、
キープと呼ばれる結び縄による数字表記が存在し、
近年になって、このキープが言語情報を含んでいる事が研究によって明らかにされている。
インカ帝国は、被征服民族については、
比較的自由に自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしていた。
峻厳な山脈地帯に広がった国土を維持するため、
王は国中の谷に吊り橋を掛け、石畳の道や階段を作り、その道中に食物の備蓄庫を置いた。
収穫された農作物は税として備蓄庫に徴収され、
そうして集められた備蓄食料は惜しみも無く民に放出された。
この結果、インカはその豊満な食料を求めた人達の心を掴んで僅か3代50年で広大な国土を得、
また、スペイン人がインカを侵略する際、
食料の補給に困ることなく侵略が容易にできてしまった原因となった。
そして『インカ帝国』は、メキシコ・グアテマラのマヤ文明と対比する南米の
原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。
その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、
インカ道を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。
スペインの建物はインカによって建設された巨大な石の壁の上に作られている。
地震の時、スペイン建築は崩れ落ちたがインカ建築は崩れなかったとも云われている。
これらインカ時代の石積みは、
石と石のあいだに「カミソリの刃一枚通さない」といわれる巧緻さで有名である。
尚、『インカ帝国』の最後の皇帝と云われるのは
二通りの区切り方があるそうである。
先日ご紹介した『トゥパク・アマル』を最後の皇帝とする場合と
『アタワルパ』を最後の皇帝とする場合である。
………………………………………………………
次に今日は『アタワルパ』をご紹介します。
下記をご覧下さい。
<アタワルパ>
(英:Atahualpa、ケチュア語:Atawwallpa=幸福な鶏、1502年頃-1533年8月29日、在位:1532年-1533年)
インカ帝国の実質的に最後(13代)のサパ・インカ(皇帝)である。(名目上最後の皇帝はトゥパク・アマル)父は11代インカ皇帝ワイナ・カパック。マラリアか天然痘であると考えられている伝染病により父帝ワイナ・カパックが亡くなると、異母兄で12代インカ皇帝ワスカルを内戦で破り即位した。
*ピサロとの交渉
スペイン人のコンキスタドールであるフランシスコ・ピサロは、1532年7月にペルー最初の植民都市ピウラを建設した。2か月の行軍の後に、ピサロは兵168人と共にカハマルカに到着し、スペインの駐留に関してアタワルパと会談するため、エルナンド・デ・ソト、ビセンテ・デ・バルベルデ神父及び現地人通訳フェリピロをアタワルパの元へ送った。
バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と臣民のキリスト教改宗を要求し、拒否するならば教会とスペインの敵と考えられると伝えた。アタワルパは「誰の属国にもならない」と言うことによって、彼の領土におけるスペインの駐留を拒否した。使節はピサロの元に戻り、ピサロは後に1532年11月16日のカハマルカの戦いと呼ばれるアタワルパ軍に対する奇襲を準備した。
スペインの法に従い、ピサロたちスペイン人はアタワルパが要求を拒否したことで公式にインカの人々に宣戦布告をした。アタワルパがバルベルデ神父に対し、彼らがどんな権威でそのようなことを言うことができるかと冷たく尋ねたとき、神父は聖書を皇帝に勧め、この中の言葉に由来した権威だと答えた。皇帝は聖書を調べ、なぜこれは喋らないと尋ねると、地面に放り投げた。それはスペイン人がインカと戦うための口実となった。神父が神に対する冒涜だと叫ぶ声を合図に、射撃は開始され、2時間にわたり6,000人以上の非武装のインカ兵が殺された。アタワルパは太陽の神殿に投獄された。
*幽閉から処刑へ
アタワルパは未だスペイン人が彼の帝国の支配を目論んでいることを信じられなかったので、彼らが探している金銀を与えれば自分を釈放し立ち去ると考え、ピサロに金を大部屋1杯、銀を2杯提供することに同意した。ピサロは申し出に唖然とさせられたが、皇帝を釈放する意向は全くなかった。それは、ピサロが周辺諸国において秩序を維持するためには現地住民に対する皇帝の支配力を必要としたためでもあり、更にそれ以上にスペインのカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の支配の元、アタワルパの供述によってピサロ自らが帝国全土の総督として君臨することを意図したためであった。
インカ帝国キト守備隊のルミニャウイ将軍の保有する兵はスペイン兵をはるかに上回る数であったため、その差し迫っている攻撃を恐れ、数カ月後にスペイン人は、アタワルパをあまりにも多い責任があるとし、処刑することを選択した。ピサロは、模擬裁判を行い、皇帝が偶像崇拝を常習としたこと及び実の兄であるワスカルを殺害したことでスペイン人を不快にさせたとして火あぶりによる死刑判決を下した(ワスカルの死についてはアタワルパが関与した証拠はない)。インカの宗教では、焼死した魂は転生できないとされているため、アタワルパはこの判決に恐怖した。ここでバルベルデ神父が、キリスト教への改宗に同意するなら判決文を変更するように働きかけるとアタワルパに言った。皇帝は洗礼を受けることに同意し、洗礼名ホアン・サントス・アタワルパを与えられ、キリスト教徒たる彼の要求に従い、焚刑に代えて絞首刑となった。サパ・インカの位は、彼の死後、傀儡皇帝トゥパック・ワルパに、その後別の弟であるマンコ・インカ・ユパンキに引き継がれたが、実質的な皇帝としては彼が最後のインカ皇帝である。
参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
いつか一度は訪れてみたい…。
歴史や文化や芸術や哲学や科学や…
幸いにも様々な事を学び経験する機会を与えられて、
近年、益々TAZUKO多鶴子は南米に引き込まれています。
今日は先ず最初簡単に『インカ帝国』をご紹介します。
………………………………………………………
『インカ帝国』は『プレ・インカ』の伝統を受け継いで
金やトゥンバガ(金と銀・銅あるいは錫の合金)を精錬する技術を持っていた。
それはヨーロッパの技術が伝わるよりも前からである。
貨幣は用いられておらず、物々交換によって経済活動を行なっていた。
税金の代わりに、農産物などを国に献上していた。
また文字文化も持たなかった為、
歴史や文化面で不明確な部分もあることも手伝って
現代人に神秘的な印象を与え魅せられている人が多い。
ただし、文字文化は無かったが、
キープと呼ばれる結び縄による数字表記が存在し、
近年になって、このキープが言語情報を含んでいる事が研究によって明らかにされている。
インカ帝国は、被征服民族については、
比較的自由に自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしていた。
峻厳な山脈地帯に広がった国土を維持するため、
王は国中の谷に吊り橋を掛け、石畳の道や階段を作り、その道中に食物の備蓄庫を置いた。
収穫された農作物は税として備蓄庫に徴収され、
そうして集められた備蓄食料は惜しみも無く民に放出された。
この結果、インカはその豊満な食料を求めた人達の心を掴んで僅か3代50年で広大な国土を得、
また、スペイン人がインカを侵略する際、
食料の補給に困ることなく侵略が容易にできてしまった原因となった。
そして『インカ帝国』は、メキシコ・グアテマラのマヤ文明と対比する南米の
原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。
その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、
インカ道を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。
スペインの建物はインカによって建設された巨大な石の壁の上に作られている。
地震の時、スペイン建築は崩れ落ちたがインカ建築は崩れなかったとも云われている。
これらインカ時代の石積みは、
石と石のあいだに「カミソリの刃一枚通さない」といわれる巧緻さで有名である。
尚、『インカ帝国』の最後の皇帝と云われるのは
二通りの区切り方があるそうである。
先日ご紹介した『トゥパク・アマル』を最後の皇帝とする場合と
『アタワルパ』を最後の皇帝とする場合である。
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次に今日は『アタワルパ』をご紹介します。
下記をご覧下さい。
<アタワルパ>
(英:Atahualpa、ケチュア語:Atawwallpa=幸福な鶏、1502年頃-1533年8月29日、在位:1532年-1533年)
インカ帝国の実質的に最後(13代)のサパ・インカ(皇帝)である。(名目上最後の皇帝はトゥパク・アマル)父は11代インカ皇帝ワイナ・カパック。マラリアか天然痘であると考えられている伝染病により父帝ワイナ・カパックが亡くなると、異母兄で12代インカ皇帝ワスカルを内戦で破り即位した。
*ピサロとの交渉
スペイン人のコンキスタドールであるフランシスコ・ピサロは、1532年7月にペルー最初の植民都市ピウラを建設した。2か月の行軍の後に、ピサロは兵168人と共にカハマルカに到着し、スペインの駐留に関してアタワルパと会談するため、エルナンド・デ・ソト、ビセンテ・デ・バルベルデ神父及び現地人通訳フェリピロをアタワルパの元へ送った。
バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と臣民のキリスト教改宗を要求し、拒否するならば教会とスペインの敵と考えられると伝えた。アタワルパは「誰の属国にもならない」と言うことによって、彼の領土におけるスペインの駐留を拒否した。使節はピサロの元に戻り、ピサロは後に1532年11月16日のカハマルカの戦いと呼ばれるアタワルパ軍に対する奇襲を準備した。
スペインの法に従い、ピサロたちスペイン人はアタワルパが要求を拒否したことで公式にインカの人々に宣戦布告をした。アタワルパがバルベルデ神父に対し、彼らがどんな権威でそのようなことを言うことができるかと冷たく尋ねたとき、神父は聖書を皇帝に勧め、この中の言葉に由来した権威だと答えた。皇帝は聖書を調べ、なぜこれは喋らないと尋ねると、地面に放り投げた。それはスペイン人がインカと戦うための口実となった。神父が神に対する冒涜だと叫ぶ声を合図に、射撃は開始され、2時間にわたり6,000人以上の非武装のインカ兵が殺された。アタワルパは太陽の神殿に投獄された。
*幽閉から処刑へ
アタワルパは未だスペイン人が彼の帝国の支配を目論んでいることを信じられなかったので、彼らが探している金銀を与えれば自分を釈放し立ち去ると考え、ピサロに金を大部屋1杯、銀を2杯提供することに同意した。ピサロは申し出に唖然とさせられたが、皇帝を釈放する意向は全くなかった。それは、ピサロが周辺諸国において秩序を維持するためには現地住民に対する皇帝の支配力を必要としたためでもあり、更にそれ以上にスペインのカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の支配の元、アタワルパの供述によってピサロ自らが帝国全土の総督として君臨することを意図したためであった。
インカ帝国キト守備隊のルミニャウイ将軍の保有する兵はスペイン兵をはるかに上回る数であったため、その差し迫っている攻撃を恐れ、数カ月後にスペイン人は、アタワルパをあまりにも多い責任があるとし、処刑することを選択した。ピサロは、模擬裁判を行い、皇帝が偶像崇拝を常習としたこと及び実の兄であるワスカルを殺害したことでスペイン人を不快にさせたとして火あぶりによる死刑判決を下した(ワスカルの死についてはアタワルパが関与した証拠はない)。インカの宗教では、焼死した魂は転生できないとされているため、アタワルパはこの判決に恐怖した。ここでバルベルデ神父が、キリスト教への改宗に同意するなら判決文を変更するように働きかけるとアタワルパに言った。皇帝は洗礼を受けることに同意し、洗礼名ホアン・サントス・アタワルパを与えられ、キリスト教徒たる彼の要求に従い、焚刑に代えて絞首刑となった。サパ・インカの位は、彼の死後、傀儡皇帝トゥパック・ワルパに、その後別の弟であるマンコ・インカ・ユパンキに引き継がれたが、実質的な皇帝としては彼が最後のインカ皇帝である。
参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』