『 天が私にあと十年の時を、
いや五年の命を与えてくれるのなら、
本当の絵描きになってみせるものを。』
…… 葛飾北斎 ……
*北斎 辞世の句*
『 人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原』
(人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか)
< 葛飾北斎>
葛飾 北斎(葛飾 北齋 、かつしか ほくさい。宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉 - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)は、日本の近世にあたる江戸時代に活躍した浮世絵師であり、とりわけ後期、文化・文政の頃(化政文化)を代表する一人。
代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。
*改号すること30回 *
彼は生涯に30回と頻繁に改号していた。 使用した号は「春朗」「北斎」「宗理」「可侯」「辰政」「画狂人」「戴斗」「為一」「画狂老人」「卍」などと、それらの組み合わせである。 現在広く知られる「北斎」は、当初名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは北極星および北斗七星を神格化した日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰にちなんでいる。 他に比してこの名が通用しているのは「北斎改め為一」あるいは「北斎改め戴斗」などというかたちで使われていたことによる。 なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたため、とする説もある。
*転居すること93回 *
嘉永2年1月(嘉永二己酉年正月辰ノ日。1849年)、落款は九十老人卍筆。死の3ヶ月ほど前、北斎最晩年の作であり、これが絶筆、あるいはそれに極めて近いものと考えられている。幾何学的山容を見せる白い霊峰・富士の麓を巡り黒雲とともに昇天する龍に自らをなぞらえて、北斎は逝った。
北斎は、93回に上るとされる転居の多さもまた有名である。 一日に3回引っ越したこともあるという。 これは、彼自身と、離縁して父・北斎のもとにあった出戻り娘の応為(おうい。葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからである。
最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことである。 当然、食生活もたいそう乱れていた様子であるが、それでも90歳の長寿を全うしたのは、慈姑(くわい)だけは毎日欠かさず食べていたからである、といわれている。
*挿絵画家の一面 *
浮世絵以外にも、いわゆる挿絵画家としても活躍した。 黄表紙や洒落本・読本など数多くの戯作の挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していた。 数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に『新編水滸画伝』『近世怪談霜夜之星』『椿説弓張月』などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとした。 読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を格段に引き上げた人物と言われている。 なお、北斎は一時期、馬琴宅に居候(いそうろう)していたことがある。
嘉永2年4月18日、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えた。
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