TAZUKO多鶴子

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『富岡鉄斎・美術館』に行きました…感動しました!

2011-06-12 | TAZUKO多鶴子からの伝言
<富岡 鉄斎>
(1837年1月25日(天保7年12月19日)~ 1924年12月31日)
明治・大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。

京都(三条通新町東)法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれる。幼名は不明。猷輔を通称とし、のちに道昴・道節と称し、明治のはじめ頃、一時名を鉄斎としたが、しばらくのち百錬に改名。字を無倦、号を鉄斎。別号に鉄人、鉄史、鉄崖など。
耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励み、はじめ富岡家の家学である石門心学を、15歳頃から大国隆正に国学や勤王思想を、岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。
安政2年(1855年)18歳頃に、女流歌人大田垣蓮月尼に預けられ薫陶を受ける。翌年、南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海僊に、大和絵を浮田一蕙に学んだ。
文久元年(1861年)には長崎に遊学し、長崎南画派の祖門鉄翁、木下逸雲・小曽根乾堂らの指導を受けた。
翌2年、山中静逸と出会いをきっかけに、画業で生計を立て始めた。この頃私塾を開設。藤本鉄石・板倉槐堂・江馬天江・松本奎堂・平野国臣らと交遊した。
維新後の30歳から40代半まで大和国石上神宮や和泉国大鳥神社の神官(宮司)を勤めた。この頃、大和国の式内社加夜奈留美命神社を復興している。
座右の銘である「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践し、日本各地を旅した。明治7年(1874年)には、松浦武四郎との交流から北海道を旅し、アイヌの風俗を題材にした代表作「旧蝦夷風俗図」を描いている。
30歳で中島華陽の娘と結婚。長女が生まれるが妻とは死別。のちに再婚し長男を授かる。明治14年(1881年)、兄伝兵衛の死に伴い京都薬屋町に転居し、終の住処とする。
教育者としても活躍し、明治2年(1869年)、私塾立命館で教員になる。明治26年(1893年)、京都市美術学校で教員に就任し、明治37年(1904年)まで修身を教える。
大正13年(1924年)大晦日、持病であった胆石症が悪化。京都の自宅にて没する。享年90。

参考資料:ウィキペディア