憂国のZ旗

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『第二次大戦に勝者なし』(A・C・ウェデマイヤー 

2014-12-10 18:16:29 | 時評
戦後70年を期して、戦争に関する論述が増えたと感じている。



杜父魚文庫ブログ
http://blog.kajika.net/?eid=1002185
書評『第二次大戦に勝者なし』  樋泉克夫
2012.12.11 Tuesday name : kajikablog
「無知と無知に基づく善意こそ最大の罪だ」

<『第二次大戦に勝者なし』(A・C・ウェデマイヤー 講談社学術文庫 1997年)>

ドイツ留学経験を持ち、中佐時代の1941年にルーズベルト政権下で「勝利の計画」と呼ばれた戦争計画を立案した著者は、「日本の暗号解読の結果、ルーズ ベルト、スターク海軍作戦部長、そしておそらくはマーシャル陸軍参謀総長もまた、十二月七日(日本時間の八日)決行予定の日本軍の真珠湾攻撃について、事 前に警告されていたと解さねばならない」と結論づけている。

そして、「われわれはドイツを破壊し、日本を打ち破る以外に明確な目的を持っていなかった」だけでなく、「戦後のことを考慮にいれずに、軍事的勝利を目指して戦った」。

だからこそ、「新しく、さらに危険な敵を育てあげる結果となってしまった」と、ルーズベルトとチャーチルという米英両国指導者を激しく糾弾する。

「アメリカ参戦を正当づけるため、ルーズベルト大統領がつぎつぎと行った策略」と「チャーチルの三寸の舌先」との相乗効果によって最も利得を得たのはスターリンであり、共産主義勢力だった。

であればこそ筆者は、日本の真珠湾攻撃直後に発表されたエール大学のN・スパイクマン教授の「ドイツと日本を抹殺することは、ヨーロッパ大陸をソ連の支配に任せることになろう」との主張に全面的に賛同するのである。

欧州戦線における対独進攻の布陣を終えた連合軍は東南アジア司令部を設置する。44年初頭に同司令部参謀副長としてニューデリーに着任した著者は、同年 10月末、解任されたスティルウェル将軍(この本では「スチルウェル」と表記)に代わって中国戦線米軍司令官兼蒋介石付参謀に就くことになるが、前任者と は全く反対の立場に立つ。

前任者は「蒋介石を苦力階級の人物であるとし、高慢ちきで信用するにたらず、また、とうていいっしょに戦争をやっていける相手ではない、ときめつける」。

だが、著者は「小柄で、上品で、りっぱなからだに、人を射すくめるような鋭い黒いひとみと、人をひきつける微笑をうかべた蒋介石から、強い印象を受け」、 「ソ連共産主義は“国民政府の倒壊によって生じる真空につけこむ勢力”となるので、アメリカとしては“蒋介石とその政府を支援するしか道はない”ことを認 識する必要がある」とした。

「中国共産主義者は中国にとって、最後の、かつ最良の希望を託しうるものであるというスチルウェルの意見」を完全に排し、「日本が降伏するまえも、降伏し たあとも、中国共産党軍がきわめて有利な立場に立っていた」のは、「彼らが中国国民の運命に無責任であったからである」と記している。

前任者が蛇蝎の如く嫌っていたフライング・タイガー義勇空軍司令官に対しては、「眼前にみるシェンノートの公正な態度は、スチルウェルがシェンノートを酷評していた私の記憶とは、まるっきり反対であった」と、好感を寄せる。

ここで注目しておくべきは、著者が大統領周辺、国務省、さらに在中米大使館における対中政策実務者のうちの枢要なポストを占めていた人々 が「中国の共産主義者に共鳴していたことは、アメリカは国民政府のかわりに共産党の連中を支持すべきであるという、彼らの報告書や勧告にはっきりと示され ていた」と記している点だろう。

日中戦争は日米戦争であり、日本とアメリカの政権中枢にコミンテルンの強い介在を認めざるをえないようだが、じつはウェデマイヤーの祖父はマルクスやエン ゲルスの同志で、アメリカに亡命した後、第1インターの下で活動したそうだ。なにやら浮かび上がってきた複雑怪奇で容易には解き難いような人脈図式・・・ しんどい解読作業になりそうだ。

杜父魚文庫


qazx
2014年9月10日 (水)
窮鼠(日本)に猫を噛ませた(真珠湾攻撃)のはルーズベルトだったことに気づいたのである
http://qazx.blog.eonet.jp/docdoc/2014/09/post-246d.html
ーー以下「宮崎正弘の国際ニュース・早読み9/8書評」より抜粋編集qazx
ハミルトン・フィッシュ、渡邊惣樹訳『ルーズベルトの開戦責任』(草思社)
ーー
『東京裁判』史観がひっくり返る決定版が出た。本書の出現はおそらく論壇を揺らすことだろう。
ーー
日本の卑怯な奇襲とされている真珠湾攻撃はルーズベルトが仕掛けた陰謀によるものだった。
真珠湾攻撃直前に日本に突き付けたハルノートをルーズベルトは、米議会に対して、巧妙に隠した。
それが、事実上の対日最後通牒だったからだ。
このような史実はこれまで反日勢によって徹底的に無視されてきたことになる。
ーー
しかも、米国でも、まだそうした内容を述べると『修正主義』のレッテル貼りが行われる。
米国史学界ではいまだルーズベルト陰謀論は主流にはなっていないのだ。
ーー以下wikipediaより
フランクリン・ルーズベルトは、1882年1月30日にニューヨーク州北部のハイドパークで生まれた。
彼の父親ジェームズ・ルーズベルト(1828年 - 1900年)は、デラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長であり裕福な地主であった。
ルーズベルト家は1650年頃にオランダのハールレムからニューヨーク(当時はニュー・アムステルダム)に移住したクラース・ヴァン・ルーズベルトに始まるユダヤ系といわれる。
1788年にアイザック・ルーズベルトがポキプシーで行われたアメリカ合衆国憲法制定会議のメンバーとなり、それは曾々孫であるフランクリンの大きな誇りとなった。
18世紀にルーズベルト家は「ハイドパーク・ルーズベルト」家(民主党支持)と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家(共和党支持)の二つに分かれる。
オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領のセオドア・ルーズベルトはフランクリンの従兄であった。両家は政治的な違いにもかかわらず、親交が続いた。(ここまでwikipediaより)
ーー
著者は当時フランクリン・ルーズベルトの最大のライバルで、「大統領が最も恐れた」議会・共和党の有力者ハミルトン・フィッシュである。
ハミルトンとフランクリンは、同じニューヨークを地盤とし、所属政党が共和党と民主党と違ってはいるものの、親交があった。
米国は欧州の宗教戦争に嫌気がさしてやってきた清教徒の末裔が建国した国だと考えているハミルトンは、米国は、不干渉主義の国であるべきだと考えていた。
その考えからすると、フランクリンの開戦準備は不干渉主義から大きく外れているとして、彼は、正面から反対したのだ。
しかし、彼が、本当のことを知るのはフランクリンの死後である。
だからこそ、ハミルトンは、この著書『フランクリンの開戦責任』の出版をフランクリンならびに関係者の死後まで辛抱強く待った。
さらに祖国の若者がまだ戦っているベトナム戦争の終結まで待って、ようやく1976年に刊行したのだった。
日本語訳はさらに、原著刊行から38年、フランクリンの死から70年、第一次世界大戦から百年後になって、ようやく日の目を見たことになる。
ーー
内容は瞠目すべき諸点を含んでいる。
フランクリン・ルーズベルト大統領は、真珠湾奇襲の翌日に開戦を議会に求めた。
これには当時の共和党指導者・ハミルトンも賛成演説をせざるを得なかった。その経緯が詳述されている。
米国の不干渉主義は一夜で覆(くつがえ)ったのだった。
しかし、結局米国は、ヤルタの密約で東欧、満州、そして支那を失ってしまう。
フランクリンは一体何のために参戦したのか。
多くの米国人の命を失った挙句、国益を損なっただけだったのではないのか。
ーー
フランクリン・ルーズベルトは、「なにがなんでも戦争をしたかった」それは何故だったのか。
ハミルトン・フィシュは、その理由を次のように書いている。
ーー
第一はフランクリンが行った新政策new dealが完全に「失敗」していたことだ。
そのため、「訳の分からない組織が乱立し」(38p)社会主義者、共産主義左派がホワイトハウスに潜(もぐ)り込んだのだ。
使い放題の資金をばらまく組織が社会主義者らによって組織された。しかし経済不況は終わらなかった。
つまり、経済恐慌から脱出するためには、戦争が必要だった。フランクリンは、猛烈に戦争を望んだ。ウォール街も戦争を望んでいた。
「スターリンは世界最悪の殺人者である。フランクリンは、そんなスターリンの友人であると述べていた」
「政策は間違いなく社会主義的であり、我が国の集産主義化(土地その他すべての生産手段の私有制を廃し社会的所有にするという主張)あるいは国家社会主義化への地ならしとなるものだった」
「この事実はフランクリンがフェビアン社会主義者であることを示している」
ーー
第二はフランクリン自らが、殆どの権力を自分に集中させ、議会に知らせずに開戦準備をしていたことだ。
「フランクリンは、日本に対する最後通牒を発した。そして戦争への介入に反対する非干渉主義者を徹底的に迫害した」
「フランクリンは世界の半分をスターリンに献上した。そこには支那も含まれる。それはヤルタでの密約の結果であった」(45p)
「レーニンが立てていた計画の第一段階は東ヨーロッパの共産化であった。それがヤルタ会談で(スターリンはあっけないほど簡単に目標の獲得に)成功したのである」
「次の狙いが支那の共産化であった。それもスターリンの支援によって成功した」
ーー
第三は世界観の誤認であろう。
ヤルタ会談でフランクリンは、何故そこまでスターリンに譲歩したのか?
「フランクリンはソビエトに極東方面への参戦を望んだ。参戦してくれれば満州を含む支那をソビエトに差し上げる。それが条件になってしまった」
「戦いでの成果の分配と戦後の和平維持、それがヤルタ会談の目的の筈だった。しかし結果はスターリンの一人勝ちであった」
「イギリスはその帝国の殆どを失った。アメリカは支那を失った上に、朝鮮戦争とベトナム戦争の種をヤルタで貰ったようなものだった」
「戦後三十年に亘る冷戦の原因を造ったのはヤルタ会談だった」
「ヤルタへの代表団にはただの一人も共和党員が撰ばれていない。中立系の人物も、経済や財政政策の専門家もいなければ、国際法に精通した人物もいなかった」(287P)
つまりフランクリンの周囲を囲んでいたのは、スターリンの代理人達であったのだ。
そしてスターリンは、世紀の謀略に成功したということになる。
ーー
翻訳者・渡邊惣樹氏は次のように解説している。
ーー
「ルーズベルトの死後、彼の対日外交の詳細と日本の外交暗号解読の実態が次第に明らかになり、ハルノートの存在が露見すると、フィッシュはほぞを噛んだ(後悔した)。
窮鼠(日本)に猫を噛ませた(真珠湾攻撃)のはルーズベルトだったことに気づいたのである。
彼は、議会で、対日宣戦布告を容認する演説を行ったことを深く愧(は)じた。
彼はルーズベルトに政治利用され、そして、議席を失ったのだった」
ーー
本書は米国にとって「不都合な真実」が書かれており、米国では、いまだにフィッシュは「修正主義」のレッテルを貼られたままだ。
だが、この修正主義は反日勢の政治宣伝用語に他ならないのである。
そして読了後に深く感じたのは、スターリンの「孫子(そんし)」を思わせるほどの見事な謀略家振りと、スターリンに翻弄された、フランクリンの哀れな政治屋振りだ。
ーー
余談だが、七月にバンクーバーに行ったおり、評者(宮崎)は、渡邊さんから原書を見せて貰った。すでに翻訳は完成していると言っていた。九月に、早くも刊行にこぎ着けたのは慶賀に堪えない。
ーー以下コメント
ハミルトン・フィッシュ、渡邊惣樹訳『ルーズベルトの開戦責任』(草思社)の紹介をありがとうございました。
この本は、1985年に「日米・開戦の悲劇―誰が第二次大戦を招いたのか」岡崎久彦監訳で、そして1992年には、文庫本も出ています。
初めて手にしたとき、その内容の濃さに何度も読み返しました。今は絶版となり、amazonでは、その中古本に、8000円以上の値がついています。
ハミルトン・フィッシュは、アメリカ不干渉主義の中心人物として参戦回避に注力していました。
しかし、真珠湾攻撃の翌日には先頭に立って日本撃つべしと演説し、国論をまとめています。
戦後フィッシュは、ハルノートを知り、その内容が事実上の対日最後通牒だったことに驚きます。
つまり、日米開戦は、ルーズベルトが端緒を開き、そして、多くの米日の若者を死に追いやった。
それを悔い、ルーズベルトの狂気を世に知らせるべく書かれたとのことです。
日捲り 2014/9/8
ーー

渡邊惣樹訳『ルーズベルトの開戦責任』(草思社)ですが、素晴らしい資料です。
渡邉氏に対しては、近代史の研究者として期待しています。
フィッシュが米国で修正主義と呼ばれている件については、米国の歴史家、モーゲンソーによって、
「近代ではあらゆる戦争責任は敗戦国にきせる習わしになっている。だから開戦事情を調べることは喜ばれない」からだと解説されている。
逆に言うと、反修正主義とは政治に屈した政治思想であろう。
史実を研究すれば、ヘレンミアズ女史が「アメリカの鏡日本」で記しているように、米国の対日圧迫があまりにも明らかだ。
したがって米国では真珠湾以前の日米関係を研究すると、結果として修正主義に至るので、米国でのその研究は禁物になっている。
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奇襲が卑怯というのは、戦争とスポーツをすり替えた詭弁である。米国民を開戦に導くための言い訳に過ぎない。
英国の歴史家は、首にナイフを当てらえた日本が振り払っただけであると述べている。正当防衛なのだ。
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それにしても米国の執拗な反日の動機は何か。
排日が始まったのが、ポーツマス会議直後からだった。
それは米国が、19世紀以来満洲の植民地化を狙っており、それを日本政府に邪魔されたからだ。
ハリマンの南満州鉄道買収を日本政府が断ったのだ。
ーー
これは、日本人にとっては意外だが、極東専門家マクマリが、「ワシントン体制を一番守ったのは日本、破壊したのは米国」と批判している事から分かる。
またマクマリは1935年、国務省の要請に対して極東政策に対して以下の建言書を作成している。
・日本を滅ぼしてもソ連が南下するだけだ。
・蒋介石は米国を利用しているだけで米国の自由にならない。
・日米戦争は双方に大損害を与える。
・米国は支那から手を引くべきだ。
この建言はホーンベック極東部長に黙殺され、米国は開戦する。
戦後マクマリの建言をGケナンは激賞した。全て的中していたことが分かったからだ。

ーー
満洲支配をめぐっては、ヤルタ会議で、スターリンは満洲の代理占領に同意し、代償に支那、日本の領土、米国の兵器80万トンを手に入れた。
この席に蒋介石が呼ばれなかったことは、支那事変の黒幕が米・ソであったことの証拠を公開したことに成る。
蒋介石は、米ソの傀儡に過ぎなかったのだ。
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戦後、チャーチルはこんな世界を作るために戦争をしたのではなかったと嘆いた。
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第二次世界大戦後期の支那戦線およびビルマの戦いにおいて米陸軍と国民革命軍を指揮し、日本軍と対峙したウェデマイヤー将軍は以下の様に述べている。
「第二次大戦の勝利者はスターリンただ一人だ。それは彼がルーズベルトやチャーチルと違い、戦後の世界をどのように支配するかを考えて戦争をしていたからである」と。
戦後、クレムリンでスターリンが、新たに支配した地域を含む新しい世界地図を最高幹部たちに見せると一同讃嘆して声も出なかったという。
まったく敵ながら水際立った手際であった。
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ソ連スパイは、米大統領特別補佐官から米原爆研究所、米口紅製造業界にまでおよんだ。
米国が易々とそれを許したのは、ロシア皇帝への反感と、共産主義にだまされたからだと思われる。
スターリンは非情な現実主義者であり、共産主義は、独裁の正当化に利用しただけであった。
ヒトラーは共産主義を虚構であるとして否定したが、スターリンは共産主義の虚構を独裁の道具に使ったのだ。
スターリンは、ヒトラーよりもずっと悪党だったのだ。
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スターリンの方法は政敵を仲間割れさせ、半分を滅ぼし、残りを自分で片付けるというものだった。
天才的漁夫の利作戦であった。
スターリンは、東部国境の反共勢力を無力化するために、支那事変をおこし、反共の蒋介石と日本を戦争させたのだった。
両方滅ぼしておいて、そして蒋介石をスターリンの傀儡毛沢東に処理させたのだ。
彼はいつも地球儀を見ながら戦略を練っていたとフルシチョフは記している。
ーー
ルーズベルトは対日無条件降伏を要求したが、これは絶滅戦を意味した。
そのため戦闘は長引き、日・米に無駄な被害を出すことになった。
これは欧州の支配圏拡大を目指すスターリンからすれば、大歓迎であった。

唯一の誤算は、スターリンが毛沢東を支援し、ソ連の傀儡に育て上げたことだった。
後に、毛は、支那を統一し、核武装後には、ソ連に国境戦争を挑むようになった。(東海子)