現代社会は、日本国指導者が国際社会で中共の軍拡を指摘する事態に突入している。
過去の支那大陸との関係も記事に示すとおりである。
現代の指導層たる自民党と公明党の集団的自衛権 に対する相克は国家の存立を危うくする事を
深く懸念する。一体誰が、間違っているのか?
中国軍拡「国際社会の懸念」=集団自衛権に理解求める―安倍首相、NATOで演説
時事通信 5月7日(水)0時21分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140507-00000001-jij-pol
【ブリュッセル時事】安倍晋三首相は6日午後(日本時間同日夜)、ブリュッセルの北大西洋条約機構(NATO)本部で演説した。首相は、中国による軍拡 や東アジアでの挑発的な行動を「わが国を含む国際社会の懸念事項だ」と強く批判。また、「世界の平和のため、日本はどのような貢献をすべきか、政府方針を まとめたい」と述べ、憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認を目指す考えを示し、理解を求めた。
首相は、中国の軍備増強を「不透明」と指摘し、NATOに対し、アジア太平洋地域の不安定要因にならないよう、武器などの輸出管理の徹底を訴えた。さら に、「東・南シナ海では力による一方的な現状変更の試みが頻発している」と強調。日本は自制的で冷静な対応を続けつつ、航行の自由や上空飛行の自由を擁護 する方針を示した。
元寇、戦わず属国になれば日本はどうなっていたか…現代リーダーは「時宗」を見習え
産経新聞 5月6日(火)12時15分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140506-00000519-san-soci
博多湾を望む生の松原に復元整備された石塁。蒙古襲来に備え、鎌倉幕府が築かせた=福岡市西区(写真:産経新聞)
平安時代中期に中国東北部の女真族による海賊が九州北部へ侵攻した「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」から約250年後、新たな脅威が日本を襲う。日本 人なら誰もが知っている蒙古襲来(元寇)だ。この戦いでは、鎌倉幕府の御家人や西日本の武士団の活躍が有名だが、幕府の執権、北条時宗のリーダーとしての 胆力の強さも忘れてはならない。
中国・元の初代皇帝フビライ汗は日本を属国にしようと、朝貢を求める国使をたびたび送ってきた。これに対して時宗は、常に強硬な態度を示し続ける。
これには理由があった。元が日本に襲来するにしても、十数万以上の軍勢は一度に動員できない。しかも元軍は東シナ海や玄界灘を渡ってくるため、途中で難 破する可能性もある。日本にたどり着いたとしても、軍勢は疲労しているに違いない-。後に元によって滅ぼされる宋から逃げてきた僧たちの情報をもとに、こ うした情勢判断をしていたからだといわれている。
その後、文永11(1274)年の「文永の役」と弘安4(1281)年の「弘安の役」の二度にわたり、日本軍は襲来した元軍を撃退した。日本戦史の中で、日露戦争と並ぶぐらい大きな意味を持つ勝利であったことは、歴史が証明している通りだ。
■上皇の力も借り“オールジャパン”実現
二度にわたり元軍を敗退させた最大の要因は暴風雨だったが、蒙古襲来に際し、時宗が日本全国の武士団を統一したことも、勝利につながる大きなポイントだろう。
というのも、この時代、鎌倉幕府が命令を下せるのは幕府の御家人だけだった。守護、地頭を全国に配置しているといっても、土着の国侍や地方の国司などの 勢力は朝廷の命令でしか動かなかった。おまけに真っ先に蒙古襲来に備えなければならない西日本の武士団には、幕府の御家人はほとんどいなかった。
元軍の襲来が近づくなか、本来は後宇多天皇に詔勅を賜るべきところではあったが、天皇は幼少であったため、時宗は先の天皇である亀山上皇の力を借りる。 上皇から時宗に対して、「全国の武士団への指揮命令権を与える」という宣旨が下りたことにより、全国の武士団は宣旨に従い、九州北部に出陣して行った。時 宗は上皇の宣旨という非常に巧妙なやり方で、全国の武士団を統一したのである。
「文永の役」の後には、九州北部の沿岸部を警備する異国警固番役を強化するとともに、長門(現在の山口県)に長門探題を新たに設置。御家人のみならず非 御家人も動員して、博多湾岸に今でも残る石塁を構築して防衛強化にも努めた。元の国使を二度までも処刑する行為にも出ている。これらの処刑には、元への示 威行動の意図もあったに違いない。
■富も文化もすべてが奪われていたはず
元からの朝貢の求めを受け入れて臣下の礼を取り、属国になっていれば、間違いなく日本には元の役人や軍隊が進駐してきただろう。そうなれば、元の軍人が 守護や地頭に代わって全国に配置され、あらゆるものを搾取し、伝統も文化も完全に破壊されていたに違いない。それは、元に支配された国の歴史を見れば明ら かである。
属国になることを拒否して世界最強といわれた元軍を撃退し、征服されずに済んだのは、時宗の世界観と戦略的思考による決断が大きかった。また、現在のよ うに交通機関や通信手段が発達していなかった時代に、全国の武士団を動員し、短期間に兵力を集中できたのは、時宗に卓越した戦争指導力が備わっていたから だろう。
時宗は「弘安の役」からわずか3年後の弘安7(1284)年、34歳の若さでこの世を去る。元寇に立ち向かうために生まれ、それを成し遂げると、すべての精根を使い果たして死んでいったかのような人生であった。
■軍事的資質は不可欠、危機のリーダー像
ひるがえって現在の日本のリーダーを見たとき、時宗のような人物はいるだろうか。
いまだに日本では、大東亜戦争での敗戦による後遺症から「軍事=悪」という空気が続いているが、「軍事的な資質」がなければ国際社会で通用するリーダーとして諸外国と対等に渡り合うことはできない。
時宗の生き方は、国家が危機に直面したときのリーダーのあるべき姿を教えてくれていると思う。(濱口和久)
戦後70年になろうとしているのに、残念ながら、現実を見ない人間が沢山います。国が滅亡して気ずくのでは遅いのにと、今日も亡国のマスコミへの怒りを燃やす次第です。