佐藤匠(tek310)の贅沢音楽貧乏生活

新潟在住の合唱指揮者・佐藤匠のブログです。

柴田南雄考その2

2006年04月20日 21時09分35秒 | 合唱

 

 さて、、、

 

 

 引っ張ったわけではないのですが、

ずっと書きたかったネタを。

危険ですね~。マニアックネタ。。。でも読んでね。

 

 

 この記事、

「その1っていつだ?」

というツッコミが聞こえてきそうですが、教えます。

昨年の11月9日です。

すごいですね。5ヶ月以上引っ張りました。

 

 

 前回は、「人間について」知ってますか?という

問いかけと、若干の柴田南雄紹介で短く終わった。

今日はそのつづき。

 

 

 柴田南雄について細かく知りたい人は、

「わが音楽、わが人生」(岩波書店)に

相当とても詳しいのでそちらをどうぞ。

本人の著述で、柴田は相当なメモ魔だったので、

超マニアックな本です。

 

 柴田南雄を「合唱界」において有名にしたのは

やはり、「追分節考」だろう。

 

 マニアックな方は、

 

「優しき歌第二は?」

「3つの無伴奏混声合唱曲は?」

 

と言うかも知れないが(誰が言うだろう。。。)。

 

 追分節考は、東京混声合唱団の指揮者であった

田中信昭の「日本民謡を素材に」という

柴田南雄への委嘱に始まった作品。

 

 詳しい解説は省くが、

いわゆる民謡を素材にすると言った時、

この当時取られていたと思われるアイデアは、

日本民謡を西洋音楽の和声で編曲したり、

五線譜の上に民謡を乗せるといった、

西洋音楽一辺倒の中で生まれた味付けの仕方だった。

 

 そういった、民俗音楽のバックグラウンドを無視し、

そこから切り取った形で民謡が扱われたこと、

これらの動きに疑問を抱いていた柴田は、

民謡そのもの自体を、そのままの形で舞台に乗せようと考える。

 

 使った素材は、今言うところの「追分様式」と言われる、

一語一語をメリスマで引き伸ばすタイプの「追分節」。

長野県の民謡。

これは、日本民謡に対するオマージュのようなものではなく、

この様式が、モンゴルをはじめとした世界各地に

分布していることから選択されたわけで、

つまり、文化として民謡が伝播することを認識するため。

 

 そして、そういった民謡の在り方を考え、

ステージから一方的に聴衆に歌いかけるという

西洋音楽のスタイルを放棄し、

コンサートホールそのものを

一つの劇場空間、音空間として扱った。

歌い手が客席内を自由に歩き歌うことで(馬子唄なので)

音が動く!

聴衆はこれまで聴いたことの無い音空間に身を委ねることになるのだ。

 

 後にこれが、「シアターピース」と呼ばれ、

柴田の作品の中心を占めるようになっていく。

 

 追分節考は、それ以外にも本当に沢山の

アイデアや主義が盛り込まれていて、ここでは説明しきれない。

たまに、これらの柴田の意図から

外れた上演に出くわすことがあるのが残念だが、

上記の本を読むと、柴田がこの作品に、

もっと言えば、民謡などの民俗音楽に対し、

ひいては当時の日本の音楽教育に対し

どういう考え方を持っていたかがよく分かる。

そういう意味で、本当に柴田南雄らしい作品だと思う。

良くも悪くも頭でっかちなところが。

 

 この追分節考が初演されたのは

1973(昭和48)年、柴田が何と57歳の時だった。

その後、田中信昭、柴田南雄のコンビで、

沢山のシアターピースが初演されていく。

列挙すると「萬歳流し」「北越戯譜」「念佛踊」などなど。

 

 シアターピースの作風による分類については、

上記の著述に詳しい。

その中でも「大学生のための合唱演習」と柴田が自称した

「宇宙について」「歌垣」「人間と死」「自然について」。

これらは、単純に地方の民俗素材を用いた作品ではなく、

非常に多彩なテキストと音楽様式を用いた大作である。

こういったシアターピースを作るようになってから、

柴田の中で、「人間について」の構想が膨らんでいくことになる。

 

 

 そう、その「人間について」が初演されたのが1996年10月。

柴田が亡くなって8ヶ月経ったときだった。

そしてどういう巡り合わせか、

幸運にも、私は、その初演に聴衆として立ち会うことになったのだ。

当時新潟で大学生をしていたにもかかわらず、

なぜか、東京サントリーホールでの歴史的初演に

足を運んだのである。

 

(その3へつづく)