中国建国60周年、「官」の時代を象徴
10月1日の国慶節(建国記念日)は、中国国民にとって最も慶祝すべき休日だ。首都北京では例年、公園には露店が軒を並べ、急ごしらえの舞台ではさまざまな演芸が市民を楽しませる。建国60周年の今年はそうならなかった。10周年単位で行われる祝賀行進の年だったからだ。
市内の公園や観光スポットは閉鎖され、市民は外出を控えるよう指示された。行進が行われた長安街はむろん長安街に通じる道は数百メートル先から封鎖され、多数の警官や民間治安ボランティアが目を光らせていた。中心部の飲食店や商店は臨時休業し、繁華街に人影はほとんどなかった。
前回の50周年の祝賀行進は中国外務省の招きで訪中し、天安門前の観覧席で見た。今回は取材証が得られず、現場に行けなかったが、軍事パレードを中心に、毛沢東、トウ小平氏らをたたえ、共産党を熱烈支持する構成は同じだった。
党、軍、政府の関係部門が1年以上かけて準備、今年初めから訓練に入ったという行進は壮大で見事というほかなかった。行進参加者たちは誇りと喜びを表現し、観覧席の1万数千人たちの満面の笑顔もテレビ画面から伝わってきた。
しかし、そこに一般北京市民はいない。彼らは長安街に近づくことも、沿道の住人は窓を開けることも許されなかった。テレビの中の誇りと喜びを共有した市民もいたに違いないが、市民の一人は官製のスペクタクル映画と切り捨てた。
国慶節の祝賀行進は、1959年を最後に途絶え、84年の35周年で復活した。その当時の記録映像を見ると、軍事パレードに続く大衆の行進には自由な雰囲気が満ち、沿道の市民と一体になって喜ぶ光景が見られた。北京の大学生が、用意した「小平同志、ご機嫌よう」と手書きしたビラを掲げたことで有名だ。
当時、改革・開放は6年目に入り、トウ氏の人気は絶頂期にあった。トウ氏の功績は、毛沢東時代の全体主義から、個人の創意と欲望を重視する制度改革と思想の開放によって経済と社会を活性化させたことだ。
中国は古来、「官」(公)と「民」(私)の力関係で歴史が動いてきた。官が、抑圧や貧困しか生まなくなると、民が反抗し世が代わる。トウ小平氏が最高実権を握り、国民の支持を得たのも、そうした歴史の法則によっていた。
89年の天安門事件前、民の力は非常に強まり、民主化運動が起こり、政治体制の変革要求に発展した。トウ小平氏がそれを官の中心である軍を使い、鎮圧して以降、官の時代に戻った。
50周年行進のとき、当時の江沢民総書記は毛沢東、トウ小平に続いて自分の肖像を掲げさせた。今回はさらに胡錦濤総書記の肖像が登場した。革命を引き継ぎ、全党、全軍の統率者であることを宣伝したものだ。
トウ小平氏は生前、個人崇拝を嫌い、銅像などを立てる申請を一切拒絶し、遺骨は海に投じるよう遺言した。彼には墓さえない。マルクス主義者として人民に一身をささげる信念からと家族は説明されたという。
官の時代は、経済発展を実現したが、権力エリートが富を得るなど諸矛盾を生んだ。社会には不公平感が広がり、しばしば官民衝突に発展する。官全盛の時代のように見えて、民の力も強まってきた表れだ。
チベット、ウイグルなど少数民族の相次ぐ騒乱も、民の反抗といってよい。そうした中で、中国共産党指導部は一党独裁堅持を掲げ、民主化や政治改革に着手する気配はない。祝賀行進で示された強大な軍事力はますます党権力の支柱になっていくのか。
60周年祝賀行進には、計4回の演習段階から、迷惑を受けた市民たちの苦情が殺到した。街角に自動小銃を構えて立つ武装警察には「だれに銃口を向けているのか」とのネットへの書き込みもあったという。権利意識の強い中国国民は、簡単に力に屈しそうもない。(北京 伊藤正)
Source来源:http://sankei.jp.msn.com/world/china/091001/chn0910011916005-n1.htm、http://sankei.jp.msn.com/world/china/091001/chn0910011916005-n2.htm、http://sankei.jp.msn.com/world/china/091001/chn0910011916005-n3.htm。