この三部形式の小説、主旋律は主人公サトルと南枝里子の恋愛、副旋律はサトルとフルートの伊藤慧との友情、と思っていたが、実はサトルの倫理社会の先生だった金窪先生に対する贖罪、謝罪が主題だったのである。第三巻では、サトル達が三年生になり、サトルは南のいなくなった学園生活を、それでも締めくくろうとしていた。チェロを卒業後も継続する気はなくなってはいたが、文化祭の演奏は何とかしなければならなかった。文化祭にはオーケストラ、そして三年生によるアンサンブルがあった。オーケストラは優秀な一年生を加えながら、今までにない小編成であるモーツアルト、しかしモーツアルトとしては多くの楽器を使っている第41番「ジュピター」になった。コンマスは鮎川、サトルは当然チェロのトップ、そして伊藤はフルートを吹く。今までにない順調な練習で、指揮棒を振る鏑木先生はもう一曲、「ハフナー」もやろうと言い出した。このメンバーならできるし、今回の文化祭は学園が自分のために建設した新しいコンサートホールのこけら落としも兼ねていた。そしてアンサンブルはブランデンブルグ協奏曲の5番に決めた。バイオリンの鮎川、フルートの伊藤、そしてチェロとそれ以外にはビオラ、コントラバス、そしてチェンバロだ。文化祭まではジュピターとブランデンブルグの練習に励んだ。これが最後の演奏かもしれないと思うとサトルも一生懸命にできると考えたが、やはり集中はできなかった。夏休みには音楽大学ではない一般の大学を受験するための夏期講座に行く事になったからだった。
それでも仲間たちとの練習は楽しかった。サトルの実家の30畳もあるリビングを練習場所に提供して、仲間を呼んで、母や妹にサンドイッチなどを作ってもらって、仲間と一緒に練習できたことはいい思い出になった。それでもサトルにとっての最高の思い出は南枝里子と練習した1年生の時のソナタだった。どうしても南のことを考えてしまうことを避ける事などできなかった。鮎川はあるときからアンサンブルの録音をするようになっていた。家でも聞きたいから、という説明にあまり気にすることはなかったが、それは大きな出来事の前触れだった。文化祭の当日、鮎川は南を連れて現れたのである。文化祭の舞台の袖で、出を待っているその時であり、どうしたのか、そんなことができるのか、などと考える暇もないタイミングだった。しかしサトルたちは、退学した生徒の出演を先生たちがどう考えるだろうか、ということより、南が演奏する機会を持てることが大切だと考えた。南が家で赤ちゃんの世話をしながら、僕達の練習している録音に合わせて練習してきたことは想像できた。それでも合奏するのは初めてだった。先生たちは演奏を止めさせようとしてたようだが、それでも僕たちは最後まで演奏をやりきった。
もう一つの出来事は、サトルが一人で辞職した金窪先生を訪ねて行ったこと。サトルは先生に謝罪した。先生は許しはしないが謝罪は受け取る、と言った。一人前の大人である教師が職を失うことの意味もよくわからない学生であったサトルに、最後の授業では「ソクラテスの弁明」の言葉をくれたが、今回先生はニーチェの言葉をこれた。それは「船に乗れ」だった。新たな世界が待っている行き先に向けて船に乗れと。そして船は常に揺れているのだと。旅先には君とは異なる多様な人々がいるはずだ、どんなに揺れていても船に乗れと。先生にとっても自分の人生は航海であり、自分とは相容れないサトル、という学生とも同乗するのだということも考えた。それよりも、サトルは48歳までの自分の人生で船に乗って、揺れて、多様な人達と出会って、非合理や不誠実、不正直などとも出会ってきたが、それはすべて自分の学生時代のこの金窪先生の言葉の上に乗っかっていた。それは「人生哲学」そのものだった。金窪先生は最高の先生だったのである。
この小説は、津島サトルの金窪先生への謝罪の小説だったのだ。そのきっかけになったのは南枝里子との別れであったかもしれない。サトルが理事長の孫だったことがあったのかもしれない。ひょっとしたらドイツに留学しなければ南枝里子との別れもなく、金窪先生とは一生の良い友人になれたのかもしれない。しかし、現実は、鮎川とは今でも連絡を取り合う友人であり、伊藤はパリでフルーティストとして活躍するソリストとして活躍していた。南とは連絡も取らなかったが、考えてみるとあの時の赤ちゃんは今は30歳になっているはずだった。サトルは3年生の文化祭に南が表れ、先生たちの狼狽を尻目に演奏をやりきったことで、学校生活を締めくくり、南との別れを乗り越えた。しかし金窪先生にしてしまったことは一生拭い切れない後悔として48歳の今まで抱え込んでしまったのである。小説を書くことで、それを乗り越えようとしたのはサトルなのか、藤谷治なのか。
最後に48歳になったサトルが、パリから帰国した伊藤のコンサートに行く場面がある。蛇足のようなエピローグではあるが、伊藤のコンサートのアンコール曲はサトルへのメッセージであったと感じた。今でも友人だよ、と。藤谷治にとってはこの小説そのものが金窪先生へのメッセージなのかもしれない。ひょっとしたら現実の金窪先生は倫理社会の先生ではないのかも知れないが、きっと金窪先生が読者であればそうと分かるようなメッセージ。そしてもう一人は鮎川である。鮎川の友情に感謝するメッセージ。この学生時代の話を書かなくては、藤谷治は次の小節を書くことができなかったのかもしれない。
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