在位50年、子どもは50人以上、種馬公方などと揶揄されることもある家斉は、映画やドラマでは主役というよりも愉快な脇役的扱いが多い。寛政の改革時代から文化文政の華やかな世の中、そして天保の改革の緊縮時代までを治めた伸びやかで好き放題を過ごした、江戸時代の絶頂とも言える時代の将軍の生涯を描く。
八代将軍吉宗は紀州家、家康に倣い自分の血脈を続けるべく御三家以外に自分の血脈の次男宗武の田安、四男宗尹の一橋、孫の重好の清水の御三卿を創設した。この時代の将軍継承順位は将軍家の男子、田安家、一橋家、清水家となる。家斉は一橋家に生まれた。清水家は孫であり、その次の血脈が途切れ養子に次ぐ養子となり実質上の番外。

当然吉宗の次の将軍は長男家重、そしてその長男家治となる。ここで一橋家の治済の思惑が田沼意次の協力を得て、継承順位が上になる田安家の定信を白河藩に養子に出す措置に出る。この時点では治察の病弱な若君は存命だったが直後に死亡、一橋家は第二位となる。第一位は家治の長男家基は健在で元気だったが、鷹狩の出先で急に具合が悪くなり急死。この結果家斉が繰り上がりで将軍となる。元気な家基の死には毒殺説もある。
田安家にも一橋流から養子を入れて、御三卿すべてが一橋家の血脈で占められた。この結果、現代まで続く徳川家は、明治維新の徳川宗家亀之助となり16代家達、17代がその子家正、現代の当主恒孝氏は家正の長女が会津松平家に嫁いで生んだ次男が養子となって来た。水戸家以外の徳川家も家斉の子が養子となり、水戸家だけが家斉の子を藩主としなかった。親族の松平家にも、福井松平には26男、津山松平には19男、川越松平には29男、明石松平には30男、館林松平には24男を藩主として送り込んだ。外様でも阿波蜂須賀家に27男、福岡黒田藩には家斉の弟が藩主として送り込まれている。
家斉の男子は30人生まれているが、10年生きたのは13人、女子は27人生まれ、12人が10歳まで生きている。半分は満2歳以下で死んでいるのは、白粉に含まれる鉛中毒、大奥の御年寄り、御女中たちは全員独身で子育てを知らず、添い寝や抱いてやる愛情を込めた子育てをしなかったためと言われる。家光の乳母だった春日局が想像を超える権力を手にしたため、それ以降は乳母としてはお目見え以下の御家人の妻などが乳母となり、将軍のお世継ぎの顔を直接見ることができない、目隠しをしたまま授乳した。
家斉の時代、政治は家老たちに任された。

寛政の改革の松平定信、その退任後も緊縮財政を続けた松平信明、信明がこの世を去ると水野忠成が積極財政にカジを切り文政時代となる。
家斉の時代には多くの文化人が活躍した。海保青稜、本多利明、佐藤信淵、藤田幽谷、会沢正志斎、高山彦九郎、蒲生君平、頼山陽、山片蟠桃、林子平、工藤平助、山東京伝、上田秋成、恋川春町、柄井川柳、与謝蕪村、式亭三馬、十返舎一九、為永春水、柳亭種彦、曲亭馬琴、小林一茶本居宣長、平田篤胤、塙保己一、杉田玄白、前野良沢、大槻玄沢、宇田川玄瑞、稲村三泊、平賀源内、伊能忠敬、円山応挙、池大雅、浦上玉堂、司馬江漢、鈴木春信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川(安藤)広重、蔦屋重三郎など。最近読んだこの時代の書き物には松浦静山の「甲子夜話」、「井関隆子の天保の日記」など。庶民の間にもソメイヨシノを生み出した植木ブーム、厄除け参りの成田山新勝寺、川崎大師、勧進相撲と横綱誕生、祭礼と永代橋落橋、読本、浮世絵、歌舞伎。
泰平の世だった江戸時代のその中でも穏やかだった50年を治めた家斉。家斉がこの世を去ってから明治維新を迎えるまではたった27年だった。本書内容は以上。