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意思による楽観のための読書日記

江戸を歩く 文 田中優子、写真家 石山貴美子 ****

江戸時代260年をかけて江戸の街は発展を遂げてきた。江戸の街に生まれ育ってきた文化に思いを馳せる時、現代の東京の街を歩いてみたい気がするもの。本書は写真家石山貴美子が撮影した東京の現代写真スナップを軸に、田中優子が江戸の街への思いを綴った。江戸の街とは朱引内と言われるあたりで、北は板橋、王子、千住、柴又、東は向島、浅草、両国、深川、木場、南は台場、品川、目黒、西は新宿、雑司が谷ここいらあたりのこと。本書では、入谷、千駄木、白山、根津、上野、湯島、本郷、小石川、神楽坂、四谷、神田、両国、日本橋、佃、芝、こうした場所を巡る。



向島百花園、骨董屋の佐原鞠塢が隠居後の文化元年(1804年)に膨大な土地を購入して文人墨客を招くソロン的庭園を開いた。文人たちには梅の樹の寄付を呼びかけ、360株が集まり植物園とした。寄付した人たちはそこを自分も利用できる庭とした、というのが百花園の始まり。集まったのは大田南畝漢詩詩人の大窪詩仏、画家で狂歌師の姫路藩主の弟だった酒井抱一、画家の谷文晁、旅館経営者で作家の宿屋飯盛、汁粉やで戯作者の鹿都部真顔、秋田藩士で黄表紙作家朋誠堂喜三二などが集った。



日本橋室町あたりにはオランダ商館長の江戸滞在時の定宿となった長崎屋があった。広重や北斎もその様子を描いた。そこに、西洋医学の知識を得たい前野良沢、杉田玄白、中川淳庵などが出入りしていた。平賀源内もここで蘭書を手に入れていたという。解体新書はここで入手した蘭書を翻訳し、日本橋の須原屋市兵衛が販売した。日本橋には三人の町年寄がいて、それ以外にも長崎屋初代の江原源右衛門、浮世絵販売の伊場仙まで家康とともに江戸に入ってきた町人の築いた街。それに対して浅草は大陸からの入植者によって築かれた漁師たちの街であり対照的。



江戸の名残は、東京の下町を歩いていると見つけることが可能だが、それは歴史を知らないと難しい。本書はそのきっかけとなるに違いない。見事なスナップ写真がそれを助けてくれるかもしれない。本書の魅力は写真、それと筆者の江戸への想いである。


↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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