1996年2月に亡くなった司馬遼太郎が哲学者山折哲雄と対談した「最後の対談」ともいえる著作。没後の1997年3月発刊。
稲作が始まって以来、日本列島では神を稲作の神として称え、苗代、田植え、雨ごい、収穫、感謝、翌年への準備などという毎年の行為の中に、神式の行事を取り入れてきた。種もみ、人出の貸し借り、水の管理、稲刈りなどとともに、収穫の多くを統治者に年貢として集めるための工夫がされてきた。宗教はこうした民の「飼いならし」のすべとして利用されてきた傾向がある。イスラム教、キリスト教も人間を教育し管理するためのシステムとして確立してきた。6世紀半ばの日本ではそれまでの神式に加えて仏教を取り入れ、律令制度の確立に利用したが、飼いならしだけだったとはとらえられない部分もある。その後神仏混交が進み、日本人の心の中には神も仏も同居して、自然の中に神も仏も存在する、という感覚も生まれてきた。これをして一神教であるキリスト教などと比較して、日本人は汎神論、もしくは無神論という議論がある。浄土真宗では超越者として阿弥陀如来が強調されていて、それは「空」という存在でもある。「空」はゼロであり宇宙の根源でもある。明治維新直後の西洋文明受容に際して、明治のインテリたちが、キリスト教抜きで西洋文明だけを取り込む危険性を議論した。それは平成になった今にまで引きずっている問題なのではないかと。
日本人の死生観、日本では災害が多いため日常的に非常時への備えは怠らないが、いっぺん自然が暴れ始めたらどうしようもない。一種のあきらめとして我慢、辛抱があり、「天然の無常」という独特の自然感覚を持つ。吉田松陰の淡白な精神、無私の心とつながる。平家物語の諸行無常、鴨長明の方丈記にもあるように、仏教はインド、中国を経て日本にもたらされたが、日本では独特の受容方法があり、寺田虎彦の「天災は忘れたころにやってくる」という「天然の無常」という共鳴減少を引き起こした。仏教伝来以前からある、縄文以来の日本人の感覚とつながった。
宗教と日本人で考えるときに、日本における仏教の大衆化は15-16世紀だったと。死んだら極楽浄土に行けるという浄土信仰、これが仏教の大衆版だった。15世紀の蓮如の教えや16世紀の一向一揆の民衆運動に大きな役割を果たした。13世紀の鎌倉仏教の時代の宗教改革はインテリ層に限られていたのが15-16世紀になって民衆レベルまで広がった。広がりすぎて一向一揆になった時に、信長は徹底的に弾圧した。それ以降江戸時代を通じてキリシタンも弾圧される。もう一つは1930年代の日本におけるファシズムの時代のことを思い起こす。超国家主義者だった井上日召、北一輝、大川周明、石原莞爾らは日蓮主義者で法華経の行者だった。蒙古襲来があった13世紀には、地震や飢饉、疫病などの大災害が次々と起きた。そこで日蓮は、政治と宗教の理想的姿を「立正安国論」として鎌倉幕府の最高権力者北条時頼に提出した。時頼が死んだ後にはモンゴル帝国による元寇が実際に起きて、日本としての対応を迫られている。こうした日蓮の教えを昭和のナショナリストたちは自分たちの危機感に引き寄せて考えたのではないか。
明治維新後、日本政府は法治国家としての形を整えるために「道徳的緊張」つまり政治的モラルを持ちながら文明化の流れの中で富国強兵を図っていった。つまり、今までの日本には存在しなかった西欧的価値観、法律、制度を尊重しながらも日本の経済的発展に努力してきた。それが昭和40年代になって、明治時代に持っていた質実剛健、節度、冷静な認識力、公的な存在への謙虚さ自助の精神などを失ってきたのではないかという。明治の日本に培われたある意味での「プロテスタンティズム」や新渡戸稲造の武士道における無私論、「ひとのためにせよ」精神、これを失う日本はもう取り返しがつかない国家となってしまうと司馬遼太郎は危惧している。「坂の上の雲」の精神が、統帥権を振り回して国家を誤らせたような間違ったナショナリズムに向かってしまうことを恐れた。「坂の上の雲」の中での奉天会戦で、クロパトキン将軍率いるロシア軍が勝っていたのに退却するという僥倖に日本軍が遭遇。その戦争を通じて前代未聞なほどに戦時国際法を順守した。戦場として借りていた中国の国土、中国側への配慮も欠かさなかったとして明治期の日本政府の姿勢を評価した。本書内容はここまで。
司馬遼太郎の後継者は今のところ日本に存在するとは言えない。物語を通して、日本人が持つべき哲学や国家の方向性を示唆するような作家が、今の迷える日本には必要っだと強く感じる。