日本に現存する天皇制度は、世界に誇れる王室文化であり、残していきたい、というのは日本人の総意であろう。しかし、側室制度や皇室への養子制度を容認しない現在において、男系男子にこだわれば、皇位存続の危機は早晩訪れるに違いない。天皇の歴史を顧みれば、過去には8名の女性天皇がおり、女系により継承できた王位もあったことが分かる。明治維新新政府が決めた男系男子継承のルールは今見直す時が来ている、というのが本書の主張。
古代天皇制が始まったのが天武・持統天皇時代と考えると、それ以前の大王では、縄文時代から続く日本的シャーマニズム、アミニズムの色彩が強く、大王には神祇、神との対話を期待する部分と、行政、安全保障、司法的決断など現実社会の統治を期待する部分があった。魏志倭人伝に記された卑弥呼時代には、倭国騒乱により単独の男子王では統治できないため、女性による巫女的王と男性補佐による行政・武力・財政統治を分離し、倭国を治めたとある。折口信夫は、霊的資質が天皇の根拠であるとする説を述べている。神の意志を聞き、種々の問いかけを神に対して行う存在が「中つ天皇(なかつすめらみこと)」であり、崇神の倭迹迹日百襲姫命、神功皇后、飯豊の郎女をその例として上げている。そもそもその巫女的存在は王というよりもシャーマンであり、その現実的解決方法の一つが女性天皇だった。
古代の大王については、記紀記述の信憑性が薄いため、推測でしか述べられない部分が多いが、家系継承のルーツは稲作日本人のルーツと考えられる中国南部雲南省での現地調査から、古代日本でも家系継承は男系、女系の混在だったと推測できる。雲南省では、自家の系譜を家長が親から口伝で引き継いで子孫に伝えている。雲南省の少数部族では時代と地域により男性家長、女性家長が混在し、それが現在まで続いている。日本における古墳調査においても、埋葬者が女性である事例は関東関西全国に多数存在し、女性による家系継承は普通に行われていたと考えられる。
皇位継承は男系男子だったと主張する記紀においても、武烈大王の子孫が絶えた際には、仁賢の娘に、応神の五代孫と称する継体を娶らせて王位継承をさせた例が見られる。12世紀の扶桑略記や15世紀の皇胤紹運録では仲哀の后だった神功や履中の娘だった飯豊郎女も大王の位についていたと記されている。記紀には記されていない女性大王は他にいた可能性もある。天皇という号については、唐の高宗674年に君主の称号が皇帝から天皇(てんこう)に変わり、天武朝において中国の新制度導入が決められ、それ以前の大王も天皇と呼び替えたと同時に、男系男子による継承を基本ルールとすることが定められた。
8世紀に道鏡事件が起きて、女帝が皇位継承問題を起こしたことから、それ以降の女性天皇は江戸時代まで登場しなかったが、6世紀の推古大王を蘇我氏と厩戸皇子が補佐する体制や、舒明、皇極、斉明を蘇我氏が補佐する体制、天武亡き後の持統、元明、元正天皇が女性天皇であった。中国の男系男子継承という制度と天皇という王の呼び名を取り入れ、大宝律令として整備した天武以降も、伊勢神宮に祀られた神を天皇に近い若い未婚女性が見守る斎宮制が導入された。斎宮制は南北朝時代まで続くが、鎌倉時代以降には、天皇が象徴的な立場へと移行し、武士政権が行政、武力、司法、財政の実権を握るという政権の形に変化する。この形は室町、江戸まで継続し、明治維新後も天皇制と実務政府と言うかたちで令和の現代まで続いている。女性天皇、女系継承を受け入れることは時代の要請。男系男子による継承に拘泥することにより皇位継承を危機に晒すことは避けたい、という主張。本書内容は以上。
現代の日本で皇位継承は万世一系、男系男子、と主張する勢力にはナショナリズムを信奉する人が多い。古代日本では女系男系が混在し、巫女的存在の大王がいたし女性天皇も存在していた。男系男子を取り入れた記紀の時代は、遅れた日本の習慣を見直し、当時の先進的な中国からその制度を取り入れたことを思うと、ちょっとした矛盾を感じる。側室制度などは考えにくい現代において、男系男子継承に拘りすぎれば天皇制の危機が目に見えている。近代社会の英国王室の事例が参考になる。