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意思による楽観のための読書日記

姫君たちの明治維新 岩尾光代 ***

江戸時代後半になると、江戸幕府は朝廷や有力大名との関係を良好にするために、徳川家と有力公家、各大名家の婚姻をすすめた。幕末の事例で大河ドラマにもなった13代将軍家定に嫁した島津敬子、天璋院篤姫の家系図を見ると和宮や島津家と将軍家のつながりが分かる。

家定には、18歳のときに結婚した鷹司任子(あつこ)がいたが家定25歳のときに死去、一年後一条秀子を継室とするも1年後に病死していた。30歳で将軍となり33歳のときに藤原敬子を継室とする。将軍の正室となるため、摂関家近衛家の養女となり結婚。しかしその1年9ヶ月後、家定が死去、篤姫の後継者だった島津斉彬も死去してしまう。その後は新将軍家茂の後見人として勢力を増した篤姫だったが、鳥羽・伏見の戦いの戦いで立場は急変。江戸に逃げてきた将軍慶喜と面会し、確執のあった家茂の妻和宮と協力して徳川家存続のために奮闘する。もともとは慶喜の将軍即位を目指して斉彬から送り込まれたという篤姫、この時新政府軍を率いいていた西郷隆盛に徳川家を守りたいという手紙を送り、その内容が斉彬を心の師と仰ぐ西郷の心を動かしたとも言われる。同時に、和宮も許嫁であった新政府軍大総督の有栖川宮熾仁親王に同様の働きかけをしていて、勝海舟と西郷隆盛の無血開城は事前に二人の御台所による働きかけで大枠が決まっていたとも考えられる。江戸城を去ることになる天璋院は、千駄ヶ谷に新築された徳川家達邸に落ち着いた。同じく旧一橋家のあった麻布に身を寄せていた和宮と語り合うこともあった。天璋院は1883年、48歳で、和宮は1877年静養先の箱根でなくなる。

徳川泰子は摂家で左大臣だった近衛忠房の長女、16歳のときに19歳だった家達に嫁いだ、1882年のこと。家には天璋院をはじめ大奥の女性たちが大勢いて泰子は息が詰まる思いだった。

何をさせても見事にこなす女性だった。しかしその息子家正の正室として島津家から嫁いだ正子は、泰子とは正反対、病弱で、島津の姫の共通の育ち方で「島津の姫は自動ドア」と呼ばれたほど、お付きの女官たちが目の前の扉を開けてくれるまで待っていたという。正子は英国仕込みの編み物だけができる嫁だった。家達は貴族院議長、などを務め1940年に、泰子は日本赤十字看護婦人会長、撫子会会長、愛国婦人会理事などを務め1944年に亡くなる。大奥の終焉を見届けたのが泰子だった。

その他、将軍慶喜ゆかりの姫君で慶喜の母、登美宮吉子女王、慶喜の初恋の人で一橋家に嫁いでいた一橋徳信院直子、慶喜の正室徳川美賀子、斜陽の侯爵家を支えた蜂須賀年子、地下足袋の伯爵夫人と呼ばれた徳川幹子。

有栖川家にゆかりの、熾仁親王妃貞子、薫子、威仁親王妃慰子。前田家ゆかりの東大赤門を造らせた前田溶姫、幕末の前田家を救った真龍院隆子、幻の松平容保夫人のはずだった前田禮姫など。鍋島家ゆかりの鍋島胤子、鍋島栄子、梨本宮伊都子、松平昌子、李王妃方子。

その他、維新で落城した城に暮らした松平寿子、松前維子、光子、丹羽久子、盛岡城を救った南部郁子、主戦派の夫を持つ悲劇小栗道子、春嶽の隠された子だった池田絲。本書内容は以上。

夫を支え子孫を残すことが大仕事だった江戸時代の姫君たちには、現代から見れば悲しい話が多い。それでも夫の死後も家を支える活躍をした姫君も多かったが、姫君の力で時代は動かなかった。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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