ある日新撰組で会津から来ている有賀権左衛門に姪への贈り物に匂い袋を選んでくれと頼まれ目利きをしてやるが、これがずっとあとに官軍を敵に回した会津の一員として戦うことになる斉藤が会津藩士の娘で時尾と出会い結婚するきっかけとなる。新撰組時代のことはほかの本にも書かれているが、新撰組が敗走して隊士たちがどのような行く末を迎えたかは近藤や土方など一部を除いて知られていない。ここでは、斉藤が土方とともに会津藩側の一員として薩摩長州軍と戦うことになる経緯や、その後時尾と結婚した斉藤が旧会津藩の人たちと青森の五戸(斗南藩でのちに青森県に併合される)に逃れ苦しい生活を余儀なくされること。そして、明治になって西郷隆盛が征韓論を唱えた際に、西郷に従って多くの警察官たち(3000名いた警察官の2000名は薩摩人だったという)が九州に帰ってしまった穴を埋める形で、旧会津藩の藩士たちが東京で警察官となった話も紹介され、斉藤はそのうちのひとりとなり、西南戦争にも今度は政府側の一人として薩摩を討つ、という皮肉な歴史も味わう。
戊申の役で会津藩が軍制を改革した話の中で藩兵の年齢構成が紹介され、18から35歳までが朱雀隊、36から49歳が青竜隊、50以上が玄武隊、そして16-17歳が白虎隊となったと初めて白虎隊のいわれを知る。斉藤一という名前は新撰組時代の名前であり、その後は山口次郎、藤田五郎などと立場や仕える人に従い改名している。壬生義士伝で描かれていた斉藤一は、一緒に歩くときには左側を歩きたくない、と吉村貫一郎に言われたほどの無骨で無口な左利きの人きり男、という印象だったが、少々違う側面も持っていたことを伝えてくれた。歴史の中では大きな働きを示さない新撰組であるが、新撰組に加わった隊士達の物語には、長い徳川時代の淀みをなんとか打ち破りたい、しかし個人の力では何ともできないという、儚い希望のようなものを感じる。斉藤一が生きた一生も、その時代をより実体に近い形で語る逸話がある。ほとんどが早くして死んだ新撰組隊員にあって、永倉新八とともに長く明治時代も生きた斉藤一の人物伝である。
新選組副長助勤 斎藤一
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