意思による楽観のための読書日記

新撰組副長助勤 斉藤一 赤間倭子 ****

新撰組で組頭をつとめたのは、沖田総司、伊東甲子太郎、永倉新八、井上源三郎、武田観柳斎、谷三十郎、原田佐之助などが有名だが、そのうちの一人が斉藤一。新撰組を描いた物語で印象に残るのは浅田次郎がまったく目立たない隊士吉村貫一郎を描いて映画にもなった壬生義士伝、新撰組を島原の芸妓で太夫になった糸里の目から描いた輪違い屋糸里、そして新撰組のメンバーを一人ずつ取り上げて描いた司馬遼太郎の新撰組血風録。斉藤一はいずれにも描かれているが、左利きの油断ならない剣の使い手で、高台寺一派の伊東への間諜として働き、明治大正と警察官として長く生きた男、という印象だった。斉藤一が江戸から京都に移り、新撰組に入る経緯が綴られるのを読むと、こうした剣士にも江戸に残した女性がいて、その女性お貞が忘れられない、という情が深い男であることを知る。若くして新撰組に入り剣の腕から助勤に取り立てられ4番組頭として活躍するが、会津藩とのつながりを一生持ち続けてもいる。近藤勇や土方歳造という疑り深い人間と一緒にいて、高台寺の伊東にも嫌われない、そして会津藩大目付け高木氏とも交流を持つという器用な面も持ち合わせている。

ある日新撰組で会津から来ている有賀権左衛門に姪への贈り物に匂い袋を選んでくれと頼まれ目利きをしてやるが、これがずっとあとに官軍を敵に回した会津の一員として戦うことになる斉藤が会津藩士の娘で時尾と出会い結婚するきっかけとなる。新撰組時代のことはほかの本にも書かれているが、新撰組が敗走して隊士たちがどのような行く末を迎えたかは近藤や土方など一部を除いて知られていない。ここでは、斉藤が土方とともに会津藩側の一員として薩摩長州軍と戦うことになる経緯や、その後時尾と結婚した斉藤が旧会津藩の人たちと青森の五戸(斗南藩でのちに青森県に併合される)に逃れ苦しい生活を余儀なくされること。そして、明治になって西郷隆盛が征韓論を唱えた際に、西郷に従って多くの警察官たち(3000名いた警察官の2000名は薩摩人だったという)が九州に帰ってしまった穴を埋める形で、旧会津藩の藩士たちが東京で警察官となった話も紹介され、斉藤はそのうちのひとりとなり、西南戦争にも今度は政府側の一人として薩摩を討つ、という皮肉な歴史も味わう。

戊申の役で会津藩が軍制を改革した話の中で藩兵の年齢構成が紹介され、18から35歳までが朱雀隊、36から49歳が青竜隊、50以上が玄武隊、そして16-17歳が白虎隊となったと初めて白虎隊のいわれを知る。斉藤一という名前は新撰組時代の名前であり、その後は山口次郎、藤田五郎などと立場や仕える人に従い改名している。壬生義士伝で描かれていた斉藤一は、一緒に歩くときには左側を歩きたくない、と吉村貫一郎に言われたほどの無骨で無口な左利きの人きり男、という印象だったが、少々違う側面も持っていたことを伝えてくれた。歴史の中では大きな働きを示さない新撰組であるが、新撰組に加わった隊士達の物語には、長い徳川時代の淀みをなんとか打ち破りたい、しかし個人の力では何ともできないという、儚い希望のようなものを感じる。斉藤一が生きた一生も、その時代をより実体に近い形で語る逸話がある。ほとんどが早くして死んだ新撰組隊員にあって、永倉新八とともに長く明治時代も生きた斉藤一の人物伝である。
新選組副長助勤 斎藤一

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