筆者は元検事で最高検察庁検事をつとめ今は公証人なのだそうだが、本書の内容は趣味にしては度を超えている。かいつまんで1部と2部に分かれている本書の内容を述べると、1部で邪馬台国の位置について南九州説を主張。そのうえで、古事記と日本書紀は編纂を企図した中大兄皇子が編者に、当時の隋や唐の書き残している記述と矛盾なくするよう指示、大和朝廷の正当性を主張するために残したものであり、魏志倭人伝の邪馬台国の取扱いや倭の五王に無関心なはずはないとする。2部では日本書紀が南九州や熊襲のことを記述する内容から、南九州に存在したはずの「曾」の国について推論。そして、古事記には暗号が隠されていると主張する。
1部の南九州説は説得力があり本書を読み進むうちに近畿説の弱点を様々な視点から疑うこととなる。しかし2部の暗号編に入るととたんに理解しにくい部分が増えて、読んでいても信憑性を疑ってしまう推測が多い。それでも古事記の年代記述が常識的な大王の寿命や子をなす年齢と矛盾することは誰でもが知る所であり、その矛盾を解説するくだりは読ませる部分が多い。カギを握る記述は神功皇后だとして、神功皇后の物語は卑弥呼に合わせたエピソードだとする。さらに、その後の応神、仁徳以降、継体までの出生と崩御の西暦年を並べて、なんとかつじつまを合わせようとする日本書紀の記述を整理すると、崇神は168歳、成務95歳、仲哀52歳、応神93歳、仁徳83歳、履中64歳、反正60歳、允恭78歳、安康56歳、雄略124歳、継体43歳として古事記の年代との矛盾をなくし、年代的に無理なく解釈できる継体以降につなげたと分析する。こうして整理すると、記紀は神武を紀元前7世紀とし、神功皇后を3世紀の卑弥呼に比定することで辻褄を合わそうとしているとする。記紀の編者たちはなぜ神功皇后の新羅征伐のエピソードを書いたのか、それは倭人伝の解釈として、倭国の女王としてクナ国と戦った勇敢な王であり北九州の国々も従ったというのだから勇敢なエピソードが必要だった、と主張する。
もう一つ、中国の史書が伝える倭の五王との整合性である。5世紀ころに南朝と通交したとされる倭国の讃、珍、済、興、武でそれは誰なのかということになる。5世紀ころの中国は魏の北朝と東晋、宋、斉、梁と目まぐるしく変わっていたが、倭国は南朝から冊封を受けていた。従来の解釈では仁徳以下の大王を5世紀と見ているが、それは先程の年代比定からみて間違っていて、通説が興とみている安康までは4世紀の人物であり倭の五王ではありえないとする。古事記の編者が企図した仁徳以下の記述は、読者が誤解して倭の五王と解釈するように意図して記述されていると主張する。また、記紀編者たちは魏志倭人伝の記述する邪馬台国の場所は南九州だと知っていたが、近畿だとも解釈できると考えたとも推測できるとした。
隋書にある倭国伝に600年の遣隋使と思える記述があり、倭王は男性という記述がある。当時の大王は記紀では女帝推古としていて合わない。日本書紀の記述では600年の記述はなく、607年の小野妹子の大唐派遣から書かれている。この2つをよくよく突合すると、国の名前が隋と唐と合わない。また使者である裴世清の肩書が異なる。倭国伝には有名な「日出処の天子・・」を607年に国書として持参と記述されているのに対し、日本書紀は「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」を裴世清の帰国時に小野妹子に持たせたとしていて微妙に年代も内容も合わない。それでも通説は遣隋使は600年に始まり、607年に無礼な国書を受け取った隋皇帝は国交断絶などはせず、遣隋使は継続したと解釈されている。しかし、隋書にある遣隋使は南九州にあった倭国朝廷が派遣したものであり、日本書紀の遣隋使はそれが大和朝廷によるものと装う虚偽の記述であり、小野妹子や聖徳太子も実在していないとする。
筆者の結論としては神武から応神、さらには継体以降も大和朝廷には実在せず、古代史そのものを根本から疑って見直すべきと主張している。変曲点は白村江の戦いで、高句麗、新羅、百済で勢力争いをしていた朝鮮半島に覇権を求めていた倭国は百済と同盟関係を結び、好太王時代から高句麗と対立関係にあった。660年に半島に勢力を伸ばそうと介入してきた唐は新羅と組み、百済を滅ぼす。唐はその後高句麗と戦うが、そのスキをついて百済は倭国に使者を送り支援軍派遣を乞う。百済滅亡に危機感を持っていた倭国は大軍を派遣するが白村江の戦いに大敗する。破れた倭国軍は九州北部、西部の主力の軍勢であり、九州にとどまっていては唐・新羅軍に攻め込まれひとたまりもないと考え、九州を脱出、近畿に国ごと移動、国名を日本国と改め、天子や大王を天皇としたというのである。 その後も唐とはしばらく距離をおき、新羅とは日本国として関係回復に努めた。唐は高句麗攻略に手を焼き、668年には高句麗を滅ぼしたが、倭国攻略までは手が回らなかった、という主張である。
「三重構造の日本人」では日本には 何回もの大陸からの移住者によりそれまでに「日本人-1」の狩猟民族に代わって、農耕民族である「日本人-2」の弥生人が渡来してきたことが書かれていた。渡来経路は大きく3つで朝鮮半島、樺太、沖縄諸島である。中でも最初の渡来は南経由で九州で水田耕作を始め、1000年以上の年月をかけて徐々に中国、近畿から東海、関東へ広がっていった。さらにモンゴロイドである「日本人-3」が朝鮮半島経由で北九州に渡来し、すでに定着していた「日本人-2」退けて倭国を築いていったと考えられる。その後3世紀頃に朝鮮半島でしのぎを削っていた百済系と新羅系のグループが渡来、九州にはすでにあった倭国を始めとする諸国を避けて、出雲、瀬戸内、丹後、敦賀などの日本海沿岸から大和平野に定着したと考えることができる。つまり、魏志倭人伝が伝える倭国が存在した3世紀頃には、大和平野にも渡来人からなる勢力がいて、その周りの元から定着していた勢力としのぎを削っていたと考えられる。蘇我氏の存在は倭国の勢力とも考えられるし、乙巳の変は先住民に対して、新羅と百済などあとから来た勢力同士のあらそいとも考えられる。いずれにしても本書が1部で主張しようとしていることは非常に納得できるし、2部の暗号主張以外は首肯できる部分も多い。現在の天皇家の系譜は8世紀までは辿れても、それ以前は混沌であり、考古学、DNA解析、中国の史書、朝鮮半島の遺跡など複眼視点によるさらなる研究が必要だということではないか。