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意思による楽観のための読書日記

宮廷政治 山本博文 ****

関ヶ原の戦い以降も、秀頼が大坂城にいる間は徳川家と秀吉に恩顧を感じる大名の間に緊張感があった。しかしそれは、家康が大御所となり秀忠が将軍になり、そしてさらにその子、家光が将軍となっても、転封、改易と言うかたちで継続していた。西国の大名で旧秀吉恩顧大名だった広島の福島正則、熊本の加藤清正の子忠弘、などちょっとしたきっかけを見つけて改易させられた。秀忠が将軍となったのは、1605年、27歳の時。秀忠は三男で、家康の長男・信康信長の命で切腹、次男秀康は秀吉の養子、その後は結城家へ。三男だった秀忠が徳川将軍家を相続することになったのである。

しかし将軍となっても実権を握っていたのは、大御所家康。そして夏の陣で秀頼が殺されたあと、家康もなくなり秀忠の時代が来ると、家光に実権を渡すあいだにも40もの藩を取り潰し、改易することになる。畿内には、以前からの譜代大名を集中的に配置、改易や転封させた土地には、譜代の大名を配置して、周囲の外様を監視させる。こうした様子を生々しく描くのが、その時代、微妙なポジションにいた細川忠興とその子忠利親子。外様だったが、関ケ原でいち早く徳川支持を打ち出していた忠興と、忠実なその子忠利は、徳川将軍家から些細なことでつけ込まれないよう細心の注意を払っていたことが親子間で交わされた2000通以上にもなる書状に残されている。残された書状は細川氏文書を保存管理する永青文庫、その一次資料からみた徳川時代の政治を「宮廷政治」と名付けて紐解いたのが本書。

忠興の妻はガラシャ夫人で有名な明智光秀の娘、本能寺の変は細川家の危機でもあったが、忠興とその父藤孝の深慮で乗り切った。忠興は忠利に家督を継ぐに際しても、徳川将軍家への配慮、近隣藩主との交誼、特に筑前黒田と薩摩島津とは付かず離れずの距離感を指示していた。祝儀、不祝儀はもとより、事細かに書状の送り方から受け取り方を示していた。大名としての振る舞い方については、臆病となじられないこと、出過ぎた真似はしないことなどをアドバイス。すべての大名は有力なつながりを求めるべく、将軍家との縁を嫁入り、婿取りで果たそうと必死の努力をするが、それをあまりに表立って行うと、隣人黒田家のように陰口をきかれることになる。何をすれば徳川家への忠義を目立ちすぎず示すことになるかを、細かすぎるほど忠利に書状で伝えた。

前田利家がなくなったあと、加賀藩からは利家の正妻まつが人質として江戸に詰めることで忠節を示したことから、諸大名は次々と妻や子を江戸に人質として差し出そうとし始めた。その後それは普通のこととなるが、こうした慣行の始まりの時期に目立ってそれを行うことを忠興は忠利に戒める。いかに、最適な時期を見てそうした慣行などを実施するかは、外様として、そして信頼される細川氏としての忠義と見識を問われることになることを忠興は示すのである。細川氏は外様ではあったが、文武両道、古今伝授の細川幽斎時代から和歌の知識を継承し、黒田、島津の動きを監視するという役割を期待され、城作りの名手藤堂高虎とともに、将軍家からは信頼され頼られる存在だった。

秀忠、家光の慶長、元和、寛永の時代には、将軍となった秀忠の兄秀康の子である越前の松平忠直は、大坂の陣では真田幸村の首を取り自分が将軍となるつもりでいたところが、なぜ、という気分を払拭できずにいた。結局、隠居、豊後に配流となる。その後も名門最上、譜代の本多正純、側近井上正就がつまづき、土井利勝、酒井忠世が実権を握る。江戸城でのふるまいとして、二人の実力者に常に寄り添うこと、江戸参府や帰国などについてはその時期と理由を常に将軍家に相談することなどが重要となる。素人能が好きだった家光との付き合いとして、忠利はサラリーマンのカラオケ並みに、能の稽古に励んだ。茶の湯では、忠興の利休七哲としての名が有利に働き、利勝や酒井忠世も細川家からの茶の誘いは断らず、自家での茶の湯や茶室建築ではかならず細川家からのアドバイスを求めた。

秀忠が死んで家光が将軍となると加藤忠弘が処分され、その熊本藩に細川忠利が移封されることが決まる。細川の豊前は40万石、肥後は表高72万石であり大変な加増となるが、年貢の差し出し高は半分とすると50万石ほどにしかならず、肥後は船便が悪いため京都に送る米も豊前ほどにはならない。忠興は冷静に評価していた。そして長崎奉行の役割とキリシタンへの姿勢も忠興としては冷静に状況を見ていた。島原の乱では、強硬に戦う一揆衆に手を焼いたが、細川忠利の初陣であり、必死に戦い家光に高く評価された。この戦いでも忠興は事細かく指示、忠利も戦場から毎日の戦況をほぼリアルタイムに書状を送り忠興に報告している。

島原の乱が収まるとほぼ天下泰平の世が始まったと考えられた。参勤交代制、妻と子の江戸詰め、武家諸法度整備などが行われ、老中制度などの幕府機構が整備される。家光は江戸城に諸国大名を集め、その場でポルトガル船追放とキリシタン禁教などを告げ、天下泰平を宣言した。忠利はその子光尚に家督を継いで亡くなる。その後、光尚も31歳で早逝することになる。光尚の子はまだ幼く、本来なら藩経営は難しいと思われた。光尚は遺言として藩の返上を言い残すが、家光は細川家に熊本藩を託すと決めた。以降、改易や転封は激減、諸国大名も少しは気持ちも安堵されたという。本書内容は以上。

親子でやり取りされた書状であり、噂によるとこうだ、とか、自分はこう考える、という内容。史実かどうかは別にして、当時の外様大名自身の考えや情報収集の方策が知られる、第一級の一次資料と言える。よくぞ資料を整理、調べ上げていただいたと思う。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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