魏志倭人伝には卑弥呼と壱与という女性統治者が当時の倭国にはいたとされる。祭祀を司る以外に政治的権力をどの程度持っていたかは不明であり、卑弥呼はその弟とのペアで統治していたと考えられている。兄弟姉妹によるヒメ・ヒコ統治と呼ばれる。神功皇后は日本書紀では独立した一巻で記述するほどの存在でありながら天皇としては認めていない。推古、皇極、持統は天皇として記述しているのにである。仮説としては既に応神天皇となる胎中天皇を身ごもっていたから、と考えられている。推古などの三女王は王族女性であり皇后、そして寡婦、しかし摂政在位中に出産はしないのである。宮廷祭祀を執り行う中心人物の女性が出産という血の汚れを持っていたのでは荘厳な式典を執り行えない、という意識があった。出産を終えた皇后が未亡人になった時に直系男子がいないなどの状況が整っていれば女帝が誕生した、これが推古から持統までの女性天皇であった。
雄略天皇の死後、清寧天皇は4年、その後履中の孫の顕宗天皇、仁賢天皇が即位するがそれぞれ3年、11年、武烈天皇は8年と短く武烈天皇で男系継承者が途絶える。その後応神の5世代孫とされる継体天皇が即位するが、ここで天皇の血筋に大きな変動があったとされる。中国への派遣使者も雄略以降途絶えており、その後の倭国は混乱期に入ったのではないかと推察される。その時期に日本海、琵琶湖、畿内への交易ルートを支配するのに成功した秦氏の結び付きが強い北陸の王者継体が天皇となった。朝鮮半島の勢力で、製鉄の技術と鉄の精錬に秀でた勢力が力を持ったとも言われる。この頃から男系世襲制が意識されたと考えられるが、推古以降の6人8代の女帝はその7-8世紀に登場するのである。政治的支配層で有力になった中国的価値観も社会の基層には及んでおらず一般社会では男女は対等に近い双方的親族組織が存続していた。
推古天皇は欽明天皇と堅塩媛の子であるが、欽明天皇の子は敏達、用明、崇峻と続いて天皇となった。しかしここで欽明の子供世代が途切れ推古が即位した。その理由は堅塩媛が蘇我氏だったこと、敏達天皇の大后として王権の中枢にいたこと、推古天皇が指導者の資質に優れていたこと、統治者としての経験を持っていたことがあげられる。
持統天皇は夫の天武天皇が死ぬ前に草壁皇子を産み大后となっていた。草壁皇子は天武天皇死亡時には24才で立太子も済んでいたのに、そしてそれ以外にも高市皇子、大津皇子、舎人親王なども候補者としていたのにも関わらず天皇となったのである。資質の問題が問われたのであろうか、高市皇子が死ぬと直ぐに、草壁皇子の子(軽皇子)でのちの元明天皇との子である文武天皇が即位する。持統天皇は律令制の導入を図り浄御原令を制定(685年)、藤原京の造営も行った。天皇、皇后、皇太子という呼び名は浄御原令で定まった。持統、元明、元正、孝謙、称徳の女帝は男性の天皇が執り行うとされる践祚大嘗祭を行った。
元正天皇は元明女帝の子であり、天武天皇の孫、草壁皇子の子であるにせよ女系とも考えられる。皇后でもなく天皇の母でもない未婚女性が即位したのである。首皇子は15才であり文武天皇も15才で即位したことから若すぎることはない。つまり反対勢力がいて持統、元明女帝の政治力を使ってまずは元正天皇を中継ぎ的に立てた後に首皇子に引き継がせようとしたと考えられる。
古代女性天皇の最後は称徳天皇である。道鏡問題を引き起こし、和気清麻呂を巻き込んでも、道鏡には皇位を継がせなかった。聖武天皇の直系である称徳は後継者を白壁王と遺言し、左右大臣に軍事を委ね53才で死ぬ。白壁王は称徳の異母姉妹である井上内親王と婚姻関係にあったからである。天武の血筋を持った聖武、称徳のラインで他部皇子にと考えたが、現実には天智天皇系の桓武天皇が即位することになる
女性天皇出現背景にはそれまでの日本における社会的な女性の地位の実態があり、中国文化である律令制の浸透とともに直系男子による継承が正当な皇位継承であるとの認識が深まっていった。女性天皇については、それを認めようとする動きが出てきているが、もし認めたとしても皇太子とするのか、即位前に結婚させるのか、未婚で即位した場合にはその後のその女性天皇に結婚を認めるのか、さらにその子を皇太子にするのか、皇位継承順位はどうするのか、などには、現代日本における女性の地位と家庭の考え方、そしてこうした歴史を踏まえた深い議論と検証が必要である。
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