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意思による楽観のための読書日記

富士山宝永大爆発 永原慶二 ***

歴史に残された最後の富士山爆発は江戸時代、赤穂浪士討ち入りがあった元禄時代のあと、宝永4年となる1707年11月23日に起きた溶岩流出を伴わない噴石と砂礫噴出による大爆発で宝永噴火と呼ばれる。それ以前にも1083年(永保3年)、864年(貞観6年)、800年(延暦19年)に爆発記録がある。何年経過すると危ないという規則性のようなものはないが、富士山噴火の歴史をさらに振り返ると、貞観から宝暦の624年ほどの間隔は、観測できる限りはこの期間が最長。そのため宝暦大爆発のエネルギー蓄積は巨大だった。宝永大爆発の49日前にはM8.4の宝永大地震が起きているが、それより以前も以降も東海・東南海に大地震は起きていて、爆発との関係性は否定できないものの、大地震があれば爆発するというものでもない。

江戸の町でも地震に伴う大火災が起こり、川崎から小田原までの東海道沿いの宿場町や鎌倉でも大きな被害があった。内陸の被害も駿河東部、伊豆、甲府、松代、海岸沿いでは北から釜石、小名浜、房総、相模、東海から紀伊半島にまで被害範囲は及んだ。本書では爆発による降砂被害が甚大で、田畑や家屋すべてが埋まってしまった麓の小田原藩領の御厨、現在の小山町と御殿場市、裾野市にまたがる地域と酒匂川下流域で上流からの流砂等による堰切れによる大洪水と川筋変更による大被害を被った小田原藩領足柄郡の酒匂川左右両岸における復興を解説している。

宝永大爆発は、現代の雲仙普賢岳や三宅島大爆発と比べると噴火期間の観点ではわずか16日で噴煙が収まり、溶岩流出もなかったため、爆発自体の悪影響は長引いていない。しかし、爆発による噴煙と堆積物が広大な宅地と田畠を埋め尽くし、その復興を被害者の農民に任せてしまい、また小手先の土木工事で済まそうとした藩と幕府の貧弱な対応により、何度も堰切れを繰り返し、数十年という年月を費やしてしまったという点で大災害が大人災となった。爆発後の降灰、降砂は富士山東麓の御厨地方が1-3mと最も深く、その噴火砂は西丹沢から流出する多数の湧水、渓流を集めて大河と成る酒匂川に流入、下流部で川底を高く押しあげ、広大な扇状地足柄平野に繰り返し大洪水をもたらした。足柄地方は降灰50cmに達し、それだけでも耕地は使い物にならなくなっていたところに繰り返された大洪水により被害は一層長引いた。

11月下旬の大爆発は米年貢納付が終わり麦の作つけが終わる頃、その直後から飢餓が始まった。幕府は救済のために藩領を幕府直轄地と変更させ、勘定奉行萩原重秀は全国から100石につき2両の高役金を徴収し、総計48万両を集めた。武蔵、相模、駿河へのお救米として6225両、須走村焼失への下付金1864両、砂除け、川浚い工事に5万4480両で、残りは江戸城普請や増築費、幕府備蓄などにも流用された。重秀を重用した綱吉が死んで、家宣と新井白石が政権を握った際に白石による査問があり、重秀は高役金の使い道を復興以外に使ったことを白状して、白石により弾劾され罷免された。重秀の配下で復興策の責任を果たそうとしたのは関東郡代伊奈忠順(ただのぶ)。勘定奉行重秀の屋敷に百姓の代表3名を伴い出席、重秀に被災者の声を直接届けさせ、住民の信頼を一気に獲得した。伊奈忠順による復興は実際には小手先の土木工事に終始して、本格的な復旧は吉宗時代の田中丘隅とその弟子、蓑笠之助による二重堰と川筋の旧河川筋への復旧、数十年後を待つことになる。

御厨地方の大御神村では、爆発前36戸は被災後15戸に減少し、幕末になり、明治から昭和を通じても14戸と結局は復旧はならなかった。酒匂川流域では蓑笠之助による二重堰以降も氾濫は発生、しかしこちらは農民による自力復興もあり時間をかけて復興を遂げた。交渉相手が藩や幕府で、全58ヶ村の要求が一致していれば一致協力が可能となったが、問題となったのは村相互の利害が対立する場合の調整ができなかったこと。藩、幕府は年貢収得を第一優先としたため、復興を帰って遅らせる結果となってしまう。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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