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意思による楽観のための読書日記

板垣退助 自由民権運動指導者の実像 中元崇智 ***

板垣退助はどんな人? 昭和の百円札で肖像画を見た人も多いはずだが、総理大臣経験者?自由民権運動の指導者と言うけれど、国会設立に貢献したと。そういえば「板垣死すとも自由は死せず」と言ったとか言わなかっただろうとか。顔は知っているのにその足跡、業績について知らないことが多すぎる。

幕末の板垣は土佐藩で、山内容堂、吉田東洋に抜擢され、その後土佐藩倒幕派の中心人物として活躍。戊辰戦争で官軍の指揮官として活躍して名声を獲得。板垣は土佐藩藩政改革を実施、維新後は政権に参議として参画するが、明治8年の政変で権力闘争に負けて西郷隆盛らと下野。西南戦争が西郷たちの敗北となり、板垣は西郷に呼応しなかったことで武力による政権奪還も不可能と成る。そこで板垣は言論による自由民権運動に活路を見出して民選議会設立に邁進。1870-80年代に自由民権運動の指導者となり、岐阜では遭難事件に遭遇、その場で発言したセリフで伝説的な名声を獲得する。

日本初の全国政党となる自由党を設立したが、外遊問題で、その資金の出処から問題となり、党の資金難と急進派への統制を失ったため自由党を解党。さらに、爵位授与を辞退しようとして支持者からの信頼を失い、結果として爵位を受けたため、さらなる批判を浴びた。

1890年の帝国議会開設後は、立憲自由党、そして自由党のリーダーとして民権運動指導者から政党政治家となり、政党も運動政党から議会政党へと転身した。天皇制に関しては、一君万民論を唱え、天皇は政党外に超然として構え国民の上に立って裁可する最上権を保有すべきであり、イギリスの立憲君主制をモデルとするべしと論じた。栗原亮一の立案した「通商国家構想」に基づく政策を推進したが、日清戦争後の伊藤内閣との提携失敗、大隈重信と初の政党内閣の崩壊で指導力を失い、星亨の台頭もあり政界引退を余儀なくされた。政界から身を引いた板垣は社会政策を推進、台湾同化会設立、大相撲改革にも活躍。人物評価としての板垣は、明治元勲の大久保利通、伊藤博文、大隈重信には及ばなかったが、権力の座に執着することはなかったとされる。板垣の魅力は在野政治家としての一貫性であり、彼の山あり谷ありの人生は、一人五生を生きたと評された。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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