「本を読んでも本に読まれるな」というのが筆者の主張。同じ文章を複数の人が読むと異なる解釈がある、これが読書であり、読み手は時代と共に変わり、地域によっても異なってくる。チェホフの戯曲をロシアで演じる、同じチェホフの演劇を日本で日本の役者たちが日本の観客に向けて演じる、それぞれの意義と解釈や評価は異なるだろう。読書にも同じようなことが起きるべきである。
別な言い方をすると、書き手が読み方の細部まで指示するような書物は読みにくいであろう。読み方は読者に委ねる、そのことで深い読書ができるのであり、書物の深み自体も深まるはずである。
経済学が難しいのは、物理学や化学のような統一的な理論があるわけではなく、経験的解釈論が複数存在するからである。そして読書一般で考えると、読者の解釈する価値観は読者が属する社会のもつ価値観により左右されるのであり、読書というのは社会科学であるとも言えるからこそ難しいのである。
なにやら理屈っぽい話である。しかし、古典を読むのは自分の信を形成することに資する、自身の信がある上で筆者への信を見つける、これが読書である。「信じて疑うこと」これが読書である。筆者が言いたいことはよくわかる。
読書と社会科学 (岩波新書)
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