七福神の宝船の絵柄は江戸時代に町方で出来上がった。中国の民間信仰の道教、弥勒を布袋さんとして福神に仕立て上げた。道教には福禄寿という現世利益の神がいて、寿老人という神も作られた。毘沙門天はインドの神、財宝富貴を守る神でもある。弁財天もインドのガンジス川を神格化した女神、豊穣と技芸の神である。日本的な風貌を持つ大黒天もじつはインドの神、最澄がもたらして比叡山の台所に安置したことから台所の神として崇められた。大国主大神と習合して容貌もにこやかになり打出の小槌を持った。えびす・だいこくと併称されるこの二つの神が七福神の中心であるらしい。えびす神は日本製、各地の漁村にあった信仰であるらしい。
明治時代の東京大学は「配電盤」であったという。神田の町も配電盤に関係があるという。幕府の洋楽機関開成所は神田にあった。神田界隈に解説された私学には人材と共に欧州で学んで知識が配電盤のように配られた。
平城京を平安京に遷都した理由は寺の勢力からの離脱であった。京都にも寺は沢山あるが、門跡寺院は貴族の別荘あと、寺としては最澄と空海の比叡山と高野山金剛峯寺のみを宗教勢力とした。京都の東寺、西寺は羅生門をはさんで建設され町の南の端に作られた。その他の京都の寺は官寺ではなく、清水寺は坂上田村麻呂も私寺、神護寺も和気氏の私寺である。
東京遷都は大久保利通の決断だったが、その決断を促したのは当時まだ無名の前島密の提言だった。大久保は浪速に遷都するべきと考えた時期もあったが、宮城から官衙、学校などすべてを新築する必要がある。江戸にはそのすべてがある。
江戸時代、日本酒は灘、伊丹、池田などの醸造業者により製造され樽廻船で江戸に送られた。これを江戸下りといった。このため「下らない」とは上方のものではないという事から転じた江戸での言い回しとなった。船の艫(とも:船尾)から受ける風をトモの風という、「まとも」という言い方はそこから来た。港の船が一旦沖に出て戻ってくることを出戻りといい、一旦嫁いだ娘が戻ってくることを表すように転じた。
奈良時代後期、墾田という特例が設けられ、山野でも開墾すれば私有地とすることができた。こうしてできた貴族の荘園は律令制度を揺さぶった。さらに人集めの才能があるものが関東平野で諸国の未開地に入り、律令制度からの脱出者を集めて田園を開き、武士となった。
この国のかたち〈3〉 (文春文庫)
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