歴史は地理的な広がりと時間的なつながりの両方を踏まえて理解しなければならないという本書。戦国時代は、ポルトガルとスペインが世界の果てまで進出を図っていた時代であり、その両者の思惑と戦略を理解しておかないと、日本の歴史の理解が正しくできない。1494年に両国はローマカソリックの教皇が承認したトリデシリャス条約で大西洋に勝手に縦線を引き東側をポルトガル、西側をスペインの制海権であることを取り決めた。ポルトガル人が日本にも現れ始めたのはこの流れだったのが、それに対抗したのが当時のプロテスタント教会を支持したオランダで、ポ・ス両国のキリスト教布教は領有の前触れであると、信長、秀吉、そして家康に説明した。
もう一つの流れがレコンキスタで、711年にイスラムに奪われたイベリア半島の権益をカトリック教会は軍隊を派遣して取り返した。1143年にはポルトガル、1479年になってスペインが現在の形となる。その時期に東ローマ帝国が滅亡してイスラム勢力が近東を支配するようになる。こうした世界の動きの中に、戦国時代の日本列島にも火縄銃、イエズス会、各国商人たちが押し寄せるようになった。信長を始め、戦国大名たちは火縄銃の威力を知り、弾丸と火薬の材料である鉛と硝石を手に入れるため、堺港などを経由した貿易に力を入れるが、キリシタン大名や信者が増えるに従い、イエズス会による布教が日本列島に及ぼす領土的リスクと貿易を天秤にかけざるを得ない状況となる。
秀吉が朝鮮半島への出兵を決めたとき、琉球王国にも出兵要請をしたが、朝鮮の後ろには朝貢国である明国がいることを知る琉球王はこれを拒否。それがその後の江戸幕府と薩摩藩による琉球支配につながるが、その際、火薬の材料となる硫黄が取れる島、硫黄鳥島だけは琉球国の領有として残し、琉球と明国との貿易を継続させたという。そもそも朝鮮半島を新羅が統一する前には高句麗、そして百済があり、さらにそれ以前から半島南部と九州北部地域は環玄界灘国家とでもいえる共通民族の集団がいたと考えられている。百済と新羅、その後の戦いの末に非常に多くの難民たちが朝鮮半島から日本列島に押し寄せてきた。815年に時の政権がまとめた新撰姓氏録には1182種類の名字のうち326種類は渡来人のものだと記されている。仏教、漢字、農作、土木など大陸、朝鮮半島と日本列島は文化を共有する隣人同士だということを、歴史認識を正しく持つ上では常に意識しておく必要がある。
日本列島の通史を紐解くと、経済活動の成功が歴史変革の後押しをしてきていることを認識できる。平安時代の日宋貿易で力をつけた平氏一族は貴族政権を倒す力を獲得。南北朝時代には日元貿易により力を蓄えた楠木正成、赤松円心、名和長年などの武将が蓄えた力を背景に鎌倉幕府に対抗し、後醍醐天皇に乗っかって政権転覆に成功。日明貿易で力を蓄えた山名氏、大内氏が足利幕府の体制を揺るがす応仁の乱を引き起こした。戦国時代には、南蛮貿易で力をつけた信長、毛利元就、島津氏などが台頭、幕末には米英などとの貿易で力をつけた島津、毛利両氏が倒幕に成功した。農業主義と重商主義、地方分権と中央集権は日本史に繰り返し現れてきている。
歴史は繰り返すのではなく、相似形となり継続する、とすれば現代日本はどうだろうかと考えてみる。中央集権を目指した律令制、地方分権が進んだ荘園開拓から戦国時代、再び中央集権を目指した信長と秀吉に対し、地方分権を進めることで全国統治を成功させた家康。明治維新では中央集権に揺り戻したが、考えてみると関ヶ原の戦いは、重商主義で栄えてきた西国と農業主義を唱える東国の争いだったのではないか。東軍勝利で江戸時代は農業主義となった日本だが、明治維新ではその農業主義から重商主義へと舵を切った。その結果が植民地主義、帝国主義に走り大敗戦を迎える結果となる。戦後の経済成長と学生運動は、経済成長を目指した行き過ぎた重商主義への抵抗としての活動だったのではないか。本書内容は以上。
食料自給率を上げていかないと、今後は日本における食糧安全保障に支障を来す。少子高齢化の問題は、都会への産業と人口集中の弊害を取り除くことを考えないと根本解決しない。目先の国家的課題を考える際には、農業主義と重商主義、中央集権と地方分権、こうした歴史的視座を持って立ち向かうことが重要だという示唆である。