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意思による楽観のための読書日記

海江田信義の幕末維新 東郷尚武 ***

本書に紹介される海江田信義は西郷隆盛、大久保利通の同時代人であり、薩摩人。歴史上そんなに有名でない理由は、人によって彼の人格への評価がまちまちであり、特に江戸城引き渡し以降の薩長の指揮命令系統の乱れから、大村益次郎との確執があり、その後、大久保により京への異動を申し付けられたり、大村殺害の元凶と疑いをかけられたりしたことが影響しているのかもしれない。司馬遼太郎は大村益次郎を取り上げた「花神」でこの点を取り上げて、大村益次郎と対比させて、時代遅れで傲岸狷介、功利主義の小人として矮小化して表現している。

海江田信義は、幕末の薩摩藩で極貧の武家に有村仁右衛門の長男として生まれ、11歳で俊斎を名乗る。その後、結婚して海江田を名乗るが、それまでは有村俊斎を名乗る。俊斎が西郷、大久保と知り合い尊王攘夷運動に挺身する様は、尊王の志士そのものである。江戸に出てからは、水戸の藤田東湖、戸田蓬軒に師事、西郷をこの二人に引き合わせたのは俊斎である。勤王の僧である月照を西郷とともに鹿児島につれてきたのも俊斎、寺田屋事件で久光に命じられて鎮撫役となり、久光が江戸に上り、その帰りに生麦事件を引き起こした際に、切られて苦しんでいたリチャードソンにとどめを刺したのも俊斎。薩英戦争のときには、久光に英国戦艦への潜入を命じられた。志を同じうする二人の弟(有村雄助、次左衛門)は桜田門外の変に参加、次左衛門は首級をあげ、雄助はその後自刃している。尊王思想に思いが強いが、同時に藩主島津斉彬、そして久光への忠誠も深いものがある。所謂熱血漢、正義感が強く、短気で思い込みの激しい性格とも言える。

戊辰戦争では東海道先鋒総督府参謀となり、江戸城受け取りの責任者となり苦労した。その際、長州から軍事参謀として江戸城に乗り込んできた大村益次郎と諍いを起こしてしまう。この大村はその後、上野戦争、東北における奥羽越列藩同盟との戦いで戦功を上げて、新政府の軍事方として名を挙げることになる。大久保は、その大村との確執を引きずらないよう、俊斎に京都行きを進め、不要な摩擦を防いでくれたのである。その後、大村は暗殺され、東京に戻された海江田は、維新功労者として刑部大丞、奈良県知事、元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官を歴任し75歳でこの世を去った。

海江田の娘は東郷家に嫁ぎ、婿の平八郎は後の元帥となるが、平八郎の兄壮九郎は海軍大尉となり西南戦争にて西郷に加担し城山にて自刃。筆者は平八郎の弟四郎兵衛と俊斎のひ孫である。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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