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意思による楽観のための読書日記

江戸の不動産 安藤優一郎 ***

江戸の町の不動産取引には大きな変革期がある。家康による江戸開府、明暦の大火、江戸人口増加、明治維新であり、近代になってからは関東大震災、東京大空襲による焼失である。本書では江戸時代の不動産取引を解説する。

江戸の町は東は今の荒川、北が千住大橋から王寺、西が板橋から内藤新宿、渋谷、目黒、南は品川宿までが御府内である。江戸の町開発については「徳川家康の江戸プロジェクト」に詳しいが、開府にあたっては川を付け替え、神田上水と玉川上水を開拓した。御府内には武家地、町人地、寺社地があった。参勤交代を制度として導入してからは、大名は家族と家人、部下たちも含めて江戸詰めを義務付けられたため、拝領地に上、中、下屋敷を構えた。これが武家地で御府内の7割を占める。拝領地には年貢はかからず、公役、労役は課せられない。旗本、御家人の拝領地も同様である。拝領地は下賜されたものであり、所有権はなく売買はできない。そのため、大名家はその他の土地を求めて下賜地交換、武家との土地交換、農地・町人地取得などにより、不動産ビジネスに向かう。

開府に先立ち、現在の日本橋界隈では紺屋、鉄砲、鍛冶、畳、桶など町人地の整備が進められ、寛永年間には300町に達した。この地域は古町と呼ばれ、江戸城の御用を勤めるため、土地は割り当てられ年貢、土地への賦課も免除された。同時に魚を江戸城や武家に納めるために日本橋魚市場が開設。町人地の支配を命じられたのが3人の町年寄で、土地を下賜され年後も免除された。

木造の建物で密集して建てられた町人地は火事に弱かった。明暦三年に起きた明暦の大火では江戸城も含め日本橋から隅田川を越え深川までの下町一帯が灰燼に帰した。江戸の6割が焼失、焼死者は10万人を超えた。当時の消火活動は建物を取り壊す以外にはなく、この後、「広小路」と呼ばれる火除け地を設けた。神田須田町の筋違い門、京橋の中橋、上野広小路などがそれである。また、火事で焼けた場所は火除け地とされ、建物を再建することが禁じられる。この新たに設けられる火除け地を巡って、不動産取得の抜け穴をめぐる知恵比べがあった。固定した建物は禁じられたが、可動の物売り、植木、一時的な物資置き場、など、抜け穴的な例外をめぐり使用許可を求める事例が相次いだ。

大名屋敷が焼けた場合でも火除け地とされたため、大名は郊外に代替地の取得の必要に迫られる。大名が住む上屋敷、隠居した大名や世継ぎが住む中屋敷、避難所としての下屋敷、それ以外に倉庫や別荘を持つ大名もいたため、大名屋敷の郊外への分散が進む。下賜された武家地は免税だが、農地は大名が購入しても年貢は免除されないため、その土地を管理し、納税を委任するため、以前の農地所有者がその任に当たる。こうした土地拡大で、儲けを得る大名や豪農が増えていくと同時に、借金のかたとして土地を取り上げられた庶民は借家住まいとなる。下賜された武家地の売買はルール上は禁止されていたが、貸し出すことは可能。下賜された土地を貸し出して借賃を稼ぎ、自分は別の借家で暮らす旗本・御家人も多く、等価交換や農地取得などで、不動産ビジネスに精を出す大名・旗本・御家人たちも多かった。このように明暦の大火のあとには既存市街地を超える都市基盤が幕府主導で作られ、御府内を超える地域に農地が広がるきっかけとなる。江戸城近辺にあった寺社も延焼防止のために城域外に移転させられた。その結果浅草、谷中、牛込、三田などが寺町となる。

江戸の人口増加に伴い、不動産ビジネスが広がると同時に、江戸の町には不動産物件情報を取り扱う口利き業者もいた。奉行や与力は、その土地内、屋敷内を又貸しして同心やお抱えの下っ端たちを住まわせることも常態化した。火事が多く、借家が燃えると所有者は賃料収入が途絶えると同時に建て直しが求められる。そのため、家作を建てず、借地として貸し出す、という所有者も多かった。また、火事や飢饉になると、大地主や大名たちは所有する土地の近隣住民への援助金を求められ、滞納も発生する。天保の改革では家賃・貸し賃値下げ例がでて、貸主は打撃を被る。不動産ビジネスにも多くのリスクがあった。

江戸時代中期の御府内における武家地の広がりを見ると、下町を除いて山手線内側の土地は9割方が武家地。江戸時代末期には参勤交代が形骸化し、それにより江戸の屋敷が空き家となる。長州藩屋敷などは長州征伐と同時に取り壊され、一帯は広大な空き地となる。維新のどさくさでは、地元に帰る大名屋敷、職を失った旗本御家人、佐幕系の藩の土地は、家臣の多くが地元に帰る決断をしたため、空き地となった。幕臣屋敷や空き地は新政府の官吏や役人たち、特に薩長土肥の勢力に与えられた。大隈重信は5000坪の築地屋敷を与えられた。土佐藩士で農商務相となった土方久元は小栗忠順の拝領地を手にいれ、その隣地に暮らしていた京都奉行の滝川具挙の土地も手に入れた。徳川家達にお供する形で静岡に移転する滝川具挙は、家具や畳、建具なども含めて土方に差し出すしかなかった。明治政府は10万石以上の大名の土地所有は三箇所、それ以下の大名は二箇所に制限する。接収した土地は軍用地、官庁の土地として活用される。

明治維新とともに殆どの武家地は明け渡され、東京の町には荒れ野原が広がる。土地の活用を目的とした桑茶栽培が奨励されたこともあったが、すべて失敗。土地の利用が停滞する一時期がある。そのすきに乗じたのが岩崎弥太郎で、丸の内一帯を手に入れた。福沢諭吉も三田の一等地を学校のためとして手に入れる。ここから東京の時代が始まる。本書内容は以上。

礼金の始まりは江戸の町の慣習から始まった、と「チコちゃん」が言っていたが、それほど江戸の町の人口増加と家作不足は深刻だったということ。100万人が暮らす江戸の町繁栄はそれほどすごかった。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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