大阪という都市、大きい街なのにローカルな雰囲気、猥雑さを秘めた小路、朝からフラフラ歩いてくるオッチャン、青になるのを待ちきれずフライングする歩行者の群れ、美味しいお好み焼屋と入りにくい入り口、ちょっとの隙間に割り込んでくる車、知らない人に対してもよく喋るオバちゃん、、、思いつくことはきりがない。切り取り方は様々。織田作之助、坂口安吾、林芙美子、東野圭吾、梁石日、藤本義一、黒岩重吾、、、人によっては呆れたり距離を置いたりするがいずれも大阪愛は強い。私も大学時代の4年間、この都市にある大学に通った。筆者もこの大阪の磁力なのか魔力に取り憑かれた一人だろうか。
筆者は地理学者だというが、内容からそのような香りは漂ってこない。自分の足で梅田界隈のキタ、難波と阿倍野界隈のミナミの街々を歩き、織田作や黒岩重吾らの著作を読み、この大都市が明治、大正、昭和の時代に経験してきた物語を掘り起こす。
江戸や京の町も同じだが、町割りのままでは住人を収容しきれないほどの人口増加を経験すると、東西の町割りの中に路地、小路、横丁を作り出して、その中にさらに小さな借家やアパート、小さな店が建てられる。大阪にも、法善寺横丁、のんべえ小路などという路地が盛り場や下町の中には散りばめられる。歓楽街の歴史という観点で見ると、ミナミには道頓堀界隈に芝居小屋が盛り場があり、九郎右衛門町、櫓町、坂町、難波新地、そして堀川北側の宗右衛門と合わせて5つの遊郭、南地五花街があった。キタの曽根崎新地には明治末の大火で焼失するまで遊郭が繁盛していた。その傍に梅田停車場と南海難波駅という鉄道駅ができる。これがキタとミナミの出発点だった。
昭和48年の頃、大阪駅を出ると、今はダイヤモンド地区と呼ばれ高層ビルが立ち並ぶ場所に、昭和時代の闇市の跡に形成されたと思しき密集した猥雑な雰囲気の賑々しい店々が立ち並んでいた。林芙美子の「めし」冒頭によれば「煤けた壁や、廂や、戸障子や、至るところ縦に横に看板風景。口入れ屋、下宿屋、インチキカフェ、関東だき屋、女髪結い、汁粉屋、仕出し屋など、古い古い昔ながらの梅田界隈」。今はその片鱗も感じられないが、当時はその近辺を安全に通行するために相当な注意が必要なほどの場所だった。駅前第一ビルが昭和45年に完成し、10年以上をかけて昭和56年に第四ビルが完成。落ち着いて大阪駅から桜橋、堂島方面に向かうことができるようになる。
大阪駅前にある地下街の最初は地下道で、昭和17年にはほぼその形ができていたという。その地下道に最初に営業許可を得たのは昭和24年の新聞スタンドだった。昭和時代のこの大阪駅前地下道を通ったことがある方ならご存知だと思うが、阪神百貨店が設置した「全国銘菓名物街(アリバイ横丁)」があった。これは、戦後の混乱期、焼け出された人たちが、その後もこの地下道に住み着いた。その後闇市を形成、怖くて通れない、という声が寄せられたため、排除のため営業許可を与えた業者にのみ営業をさせたという。新聞スタンドや串カツの松葉も同じ流れで選抜された業種だった。この場所にあった「ぶらり横丁」も闇市対策で大阪市民共済会が飲食業者に又貸しして昭和28年に始めたという。つまり大阪駅前地下街は、地下道に住み着いた闇市業者を排除するためにより良い業者に営業許可を与えたことにより出現した地下街だったということ。だから、大阪ガイドによれば大阪最初の地下街は昭和32年にオープンした「なんば地下センター」ということになっている。なんばの方は、西口は地下鉄難波駅、南の地上部には高島屋、北側には南街会館、東に出れば戎橋筋に出るという好立地で一気に集客に成功する。織田作之助によれば、ミナミとは心斎橋筋、戎橋筋、道頓堀、千日前界隈をひっくるめて呼ぶ名前。
本格的な地下街開発の最初はウメダ地下センターで昭和38年オープン。昭和41年には堂島地下センターと接続、昭和44年に阪急三番街も開業。第二期が大阪万博、第三期が阪急との接続だった。
東京の浅草、名古屋の大須、京都の新京極と並び称されたのは大阪の千日前。難波にあった法善寺と竹林寺で千日念仏が行われたことからこのように呼ばれた。江戸も大坂でも、貧困にあえぐ地方からの労働力の集積、行政による都市整備、雇用の場の提供などが背景としてあった。結果として、大坂でも江戸の町と同様、刑場、死体処理、墓地、革職人街、花街、木賃宿という集積が、都市の近隣周辺部に形成される。その地域に隣接して食品市場や道具屋街、専門店街が形成され、花街は飲食街とつながり、飲食街は市場ともつながる。「新地」という場所はたいてい花街だった。形成された経緯は異なるが、東京の山谷、新吉原、浅草と同じようなトライアングルがミナミにも存在する。阿倍野墓地、飛田遊廓、ジャンジャン横丁、新世界、通天閣、釜ヶ崎、黒門市場、千日前とつながる地域である。飛田に行く前に一杯景気づけに引っ掛ける。そうした客を盛り上げるように、店の奥で「じゃんじゃん」三味線をかき鳴らす一杯飲み屋が立ち並んだのがジャンジャン横丁。客はコップ酒に関東炊きをつまむ。表には「糸ある女入用」と張り紙がある。糸ある女は三味線奏者の女性のこと。花街は新世界にも広がっていった。ミナミは「濃ゆい世界」だった。
現在では、2025年万博予定地「夢洲」を巡って開発が行われているが、1988年以降、自治体主導で行われた土地開発で成功した試しがない。弁天町のオーク200、1989年のビッグステップ、1991年のオスカードリーム、同年フェスティバルゲートとビッグステップ以外はいずれも経営破綻し負債は市が負担、格安で売却して手仕舞いしている。大阪テクノポートの核となるWTC/ATCはともに配当を市が受け取ることもなく、民間活力どころか訴訟を双方から起こすほどの負の遺産となってしまう。IRとともに構想された大阪2025の都市像は、本当に府民、市民にプラスとなるのだろうか。本書内容は以上。
「ケンミンSHOW」で登場するような面白い人がたくさん住んでいる大阪、いつも飴ちゃんを持っているオバちゃん、誰とも仲良くして、何でも笑い飛ばしていないければ、やってられんわ、ということなのかもしれない。