1911年にアメリカのアーラム大学に入学したフェラーズ、その8年年上には日本から留学していた一色ゆりがいた。ゆりに恋心をいだいたフェラーズだったが、大学時代には言い出せなかった。卒業後1922年に来日してゆりにあうとすでに結婚していた。しかし、そのゆりから紹介された新渡戸稲造の武士道、そして小泉八雲の多くの書籍を通して、日本の歴史や日本人と文化について学んでいった。そのうちに日本の歴史と文化を愛するようになったフェラーズ、その日本と戦争をすることになり心をいためた。
そしてGHQのメンバーとして来日したフェラーズ、今度はマッカーサー将軍に日本統治と日本を再び戦争国家にしないための施策について提言した。その柱になったのが天皇制の維持であった。他の多くのGHQメンバーが天皇の戦争責任を主張しA級戦犯として東京裁判の被告とすべき、という勢力がアメリカ国内でもGHQ内部でもマジョリティだった中で、天皇への日本人の崇拝と天皇制度が日本の歴史で果たしてきた役割、そして開戦と終戦の判断で昭和天皇が果たした役割と限界を解説し、天皇制継続を主張する提言書をマッカーサーに提示した。GHQリーダーとして何度も昭和天皇と面談したマッカーサーは裕仁の人物を評価し、フェラーズの提言書を受け入れることにした。
天皇制維持という結論、そしてA級戦犯を裁いた東京裁判を受け入れたという事実、さらに中国やソ連抜きのサンフランシスコ講和条約を締結したということは、すべてが国際的な約束であったことを再確認する。その後の日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約は、1965年に日本と韓国との間で結ばれた日韓基本条約。この中では日本の韓国に対する経済協力、韓国の日本に対する一切の請求権の解決が確約された。これが国際的な約束であり、竹島問題はそこには別の紛争処理事項とされた。日本と中華人民共和国との平和条約でも尖閣諸島の問題は棚上げされた。しかし竹島については実効支配したのは韓国であり、尖閣諸島については日本であった。この現状に変更をしようというきっかけを作ったのは、イ・ミョンバクと野田佳彦という、日韓両国の政権の末期であり、ほぼ同時に起きたことは偶然だろうか。国内の様々な動きへの対応を急ぐあまりに日韓両国とも国際的な反応への判断を間違ったのではないか。靖国参拝問題も含め、あらためて太平洋戦争後の国際的な合意事項は何だったのかを考えさせられる。そして、第一次世界大戦後国際連盟の常任理事国になりながら中国大陸に資源を求めて進出し、リットン調査団の結果を踏まえて国際連盟を脱退してしまった日本。資源と市場を求めての事だったが、それは昔も今も大きくは変わっていないし、日本だけではなくて欧米諸国も中国も韓国も同じ状況である。ヘレン・ミアーズの言葉を借りれば、「国際的なルールや約束事は成長への欲望に根ざした後進国からの収奪を合法的に行うための体裁である」と。今でも渦巻く「欲望資本主義とグローバリズム」、安倍晋三というリーダーをトップに抱くようになった日本、日本はなぜ太平洋戦争に突入してしまったのかを今、あらためて考えさせられる。
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