日本の鉄道路線はどのような経緯で現在のようになったのかを、地形と明治政府の意向、日清日露戦争を挟んだ軍部の意見を顧みながら検証する、という一冊。
ポイントは次の通り。①最初の鉄道では牽引する蒸気機関車の馬力不足から傾斜は10パーミル、つまり1000m走って10m登る、これ以上の上り坂はできるだけ避けた。②軍部の意向として、海外から攻め込まれた時に、艦砲射撃で通行ができなくなるようなことはできるだけ避けたいので、海岸線は避ける、という方針があった。③土木技術不足から大きな川をまたぐ橋梁はできるだけ避けた。④当初の鉄道は私鉄も多く、採算がとれる都市部が優先されたが、政府はそれらを主な国有路線と直結させることを認可条件とした。⑤軍部は明治の最初はフランス式の鎮台防御方式だったのを、次第にドイツ式の移動可能な師団防衛に変更させていったので、軍部施設の機動的利用と移動利便性が路線決定に強く影響した。
明治の最初の路線決定をする時点で、日本全国の地形地図は存在せず、海岸線が書かれた伊能忠敬の日本全図があるだけだった。そのため、最適な路線決定のためには現地を訪れ、地元の地形を知る多くの人々へのヒアリングと測量が必要だった。東京と京都を結ぶ路線が最初に検討されたが、第一案は中山道、理由は②の軍事的メリットに加え、③の富士川、大井川、安倍川、天竜川など大きな川をまたぐ橋梁が少ないため。しかし横川から軽井沢、上田から松本、鳥居峠から木曽谷への山岳測量をしないままでの外国人提案の路線案だった。結局確定しないまま、大阪ー京都ー草津ー岐阜までの路線は先に建設されてしまう。最短路線なら鈴鹿越えとなるところだが、工事のしやすさに加え、すでに中山道接続を睨んだ岐阜まわり路線であった。その後の調査で①の碓氷峠、塩尻峠、馬籠峠の難所は工事が難しく、特に碓氷峠の標高差552mは当時の技術では鉄道で通ることができない地形だった。急遽決まった東海道沿いの路線でも箱根は難所で、御殿場まわりの経路を発見したのは、温泉に入りながらの地元民ヒアリングの結果だった。
東海道線の路線を細かく見ると当時の苦労が忍ばれる。京都から大津への最初の路線は、トンネルを掘らずに済ませるため、現在の奈良線で南の墨染まで行き、現在の名神高速が通る経路で桃山を越えて山科盆地から一番低い逢坂山の峠を越えて大津に至っていた。その後も米原から関ケ原に至るコースは遠回りでもできるだけ傾斜を緩やかにするように経路選択をした苦労が見て取れる。軍部の懸念であった海上からの攻撃では浜名湖周辺の路線がある。太平洋側海岸に沿って作られたが、もう一つ浜名湖を迂回、三ヶ日や天竜川上流を走って掛川まで到達する支線、現在の遠州鉄道があることに気づく。沼津から国府津の御殿場線は箱根を避けたことで有名である。
同様の理由と議論で、東北地方の東北本線、八戸、秋田の路線が決まり、横須賀・呉・舞鶴・佐世保の軍港と連絡する路線も決められた。戦争車両輸送をにらみ、線路幅の議論も戦わされたが、結局カーブが多い山岳コースでの建設容易性により、現在の狭軌で統一された。東京中心部を通る中央線のS字の理由は陸軍施設をつなぎ皇室御用地をできるだけ通らないようにするための苦肉の策だった。新京成線の曲がりくねった路線は、八柱演習場や習志野演習場を連絡する必要性に加え、洪水を避けるため江戸川と利根川水系を分ける分水嶺沿いに建設されたためと考えられている。これらと比較すると、現在の新幹線路線がいかに真っ直ぐかに嫌でも気がつく。鉄道の歴史は戦争と技術革新の歴史でもあった。