意思による楽観のための読書日記

新撰組顛末記 永倉新八 ***

永倉新八は新撰組の初期から最後まで近藤勇や土方歳三たちと行動をともにした人物、そしてただ一人の生き残りである。75歳の時、大正二年になって死ぬ間際に住んでいた地元の小樽新聞の取材に応じて語った新聞連載を本にしたもの。幕末の新撰組の物語は多くの小説に取り上げられているのでいくつも読んだ記憶があるが、勤王の志士と思っていた自分たちがどうして朝敵になってしまったのか、これがどうしても疑問だったという、この汚名を雪ぎたい、これが永倉新八が生き残ったすべてであった、そういう物語である。

愛国の志を持った人間を集めて攘夷の手段を尽くそうと幕府が清川八郎に命じて人選を任せた。常々攘夷論を口にしてた永倉新八は近藤勇の塾での仲間、沖田総司、山南敬助、土方歳三、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎などに向かって清川八郎の呼びかけに応じようと持ちかけて一同一気に攘夷党に参画することに賛同した。そして兵を募っている松平上総介を訪ねて真相を聞くことになった。尊皇攘夷の主旨であり将軍家茂が上洛する際の警護であること説き聞かせ一同大喜びで参画を決めた。小石川伝法院に集まったもの235名、1から5組に分けた。三番組長とされた芹沢鴨はなぜ自分が一番ではないのかと散々もめたため、近藤勇は山南敬助とともに三番組となり、芹沢を一番組としその場を納めた。最初から一色触発の気配があった。

新撰組隊長は芹沢と決まった後も、乱暴はおさまらず組員は迷惑を被り、京都の町の人々も新撰組を迷惑がるようになった。新撰組の総会が角屋で開かれた際、芸妓は来ているのに角屋の仲居は一人もいないことに芹沢が気がつき激怒した。手にもった大鉄扇で膳、椀、瀬戸物、欄干、酒樽など目につくものをすべて壊し始めた。挙げ句の果てに角屋に7日間謹慎を申しつけた。これでは新撰組は京都の嫌われ者である。さらに大阪の力士とも大げんかの末60人ほどを相手に切りまくり即死5名、手負い2-30名の大被害を被った。町奉行に申し出たが、武士に無礼を働いたのは力士、という沙汰、これに困った年寄りたちは逆に芹沢に詫びを入れ清酒一樽と50両を差し出し、力士と浪士は仲直り、角力興業を京都で開いて洛中の評判をとったが、新撰組としては芹沢を持てあました。その後も大阪新町の芸者が言うことを聞かないとして髷を切り捨てる、商家菱屋の妻お梅を強奪して妾にするなど悪行の限りを尽くした。近藤は芹沢の右腕だった新見錦を切腹させ、芹沢を追いつめた。

有名な芹沢鴨殺害はこうした後に行われた。芹沢、平山、平間、お梅、桔梗屋の小栄、輪違屋の糸里の寝入ったところに乱入した近藤たちに糸里、小栄、平間以外は殺された。かくて新撰組は近藤の天下となり、副長には土方が指名された。

池田屋事件の折り、斬り合いでは「お胴」「お小手」などと叫びながら斬り合った、などという記述があり現場には切り落とされた腕や足、毛髪のついた鬢などが散らかっていた、などという話は当事者だからこそ語れるような内容、迫力がある。しかし後半生は「自分は何を誇りに生きるのか」を悩んだ永倉新八であった。

勤王攘夷と考えて新撰組に参画した面々であったが、薩長が同盟するに至り鳥羽伏見の戦いに至っては幕府側であった新撰組は佐幕勤王という当時の大勢には適合しない位置づけに立ってしまった。永倉新八としては勤王攘夷に命をかけると考えていたのにもかかわらず朝敵となった自分は、誰と戦って、誰のために死ぬのか不明であったに違いないが、このときには新撰組のために戦う、とこうしか考えられなかった。大きな歴史の流れを考えられずに奔走、戦っていたのである。ほとんどは死んでしまう新撰組のメンバーのなかで生き残ってしまったがために、この疑問を死ぬまで抱え込んでしまったのが永倉新八であった。

維新後も新政府から追われる立場になってしまった永倉新八は、知り合いの松前藩家老下国に頼み、福山の藩医者杉村松柏の養子の口をきいてもらい杉村新八となり、その後家督を継いで杉村義衛と名乗った。その後、新撰組時代に芸者に産ませた娘磯子が小樽に女優となっているのを頼ってその子供たちに世話となり波乱の一生を終えた。死んだのは小樽新聞連載が終わった1年半後であった。
新撰組顛末記 (新人物文庫)
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